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追憶 [追憶]

1976年 尾小屋鉄道を訪れた帰りに遠く金沢で待ち合わせをした。
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君は眩しくて、それからずっと輝いていた。
この2年後のことを僕は後悔をしている。
ほんとうはどうだったんだろう・・・


The Way We Were
Memories light the corners of my mind
Misty water-colored memories of the way we were
Scattered pictures of the smiles we left behind
Smiles we gave to one another for the way we were
Can it be that it was all so simple then
Or has time rewritten every line
If we had the chance to do it all again, 
tell me, would we, could we
Memories may be beautiful and yet
What's too painful to remember 
We simply choose to forget
So it's the laughter we will remember
Whenever we remember the way we were
The way we were


追憶

過ぎた日々がこんなにも甘く切なく
あの夕べの一言をこんなにも後悔するとは
輝く瞳、艶やかな頬、柔らな唇、やさしい素肌
たおやかな姿と晴れやかに輝いていた日々の艶やかで甘美な記憶

なぜ、あの時僕は深い胸の奥底を明かさなかったのだろう
涙とともに打ち明ければ、やさしい胸にいざなわれもしただろうに
いつか君が僕にその心と躰をゆだねた夜のように・・・
追憶の中で君が輝く

人はどんな選択をしても後悔するのだという
未来に望みを願えなければなおさらのこと
それで仕方なかったのだと思っているのに

思い出は甘く切なく悲しく
それでいまさらどうしたいのだと問われれば
その選択を詰り、後悔を嘲けよ!  彼女に影さしたあの夕べの一言の・・・




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いすゞ117クーペ [追憶]

1976年に車の免許を取ってからはじめて運転した車は フォード コルチナ 。叔父が貸してくれた左ハンドルだった。
そうして免許を取得したのに合わせて親父が買ってくれた車は いすゞ117クーペ XC。当時の価格で約200万円位だったと思う。
エンジンは G180 SOHC 1.8L ボッシュ・Lジェトロニック。
フロントはダブルウイッシュボーン、リヤはリーフ、タイヤは165SR-13。パワステ無しでステアリングは重かった。
”クーラー”はグローブボックスの下に付けるタイプで邪魔な感じがしたので付けなかった。夏には三角窓を開けて”強制空冷”にした。
その117クーペの写真が古いファイルの間からこぼれてきた。写真など残っていないと思っていたので懐かしさがこみあげてきた。

デザインはジョルジェット・ジウジアーロ。初期型は”手造り”の部分が多かったといわれるが、僕のそれは第二世代のもの。美しいデザインは今でも色あせない。丸目に流麗なボディライン、ピラーのトリムはステンレスだった。そうして何よりも気品がある後ろ姿の造形は際立っていて今でも胸がキュンとなる。
そう、ルーフには雨樋が無かったのでステンレスのルーフバイザーを付けていたが大して有効ではなかった。
固めのシートには特製のフルカバーを母親に作ってもらった。
右のフロントピラーの前に垂直に立ち上がる電動アンテナ。オーディオはFM付きラジオにカセットテープ。吉田美奈子や因幡晃、HiFi-Setなどを聞きながら当時の付き合っていた彼女に会うために東名を何度も往復し、彼女を乗せてドライブやら旅行もした。同時に旅先の、あれはたしか野尻湖から長野のホテルへ帰る夕暮れに彼女を乗せたままフロントを少破して翌朝には旅を切り上げるという苦い思い出も甦ってきた。
ジョルジェット・ジウジアーロのエレガントなデザインの117クーペで女性をエスコートするのは何か誇らしく嬉しく思った。



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このプリントは1977年の春に金華山ドライブウエイを登った時にものだと思うが・・・彼女の家は金華山をおりて長良川を渡った先にあった。
それから、白黒の”ベタ焼き”のカットも何枚かこぼれてきた。どうやら大学の工学祭の折に撮ったもののようだ。
鉄道研究会のHOモデルのレイアウトの前のカット、顔振峠(たぶん)でのカットとともにキャンパス内に乗り入れた117クーペの前で撮ったものが出てきた。

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遠距離恋愛だった。
117クーペとともに思い出のひとつ。





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たばこを吸わなくなった話 [追憶]

2015年9月2日から煙草を吸わなくなった。禁煙をしたというわけではない。その日、いつもの煙草が美味しいものではないという感じがして無理に吸わなくてもいいかなと思ったのだ。そうして吸いかけのタバコのパックを手にしたもののそのまま机の上に戻した。

自分は煙草をこよなく愛していた。だから煙草の有害性を説かれればなるほどと納得するが、煙草を止めよと言われると大きなお世話だと内心で反発する。嗜好品は脳内麻薬と結びついた人の性である。人は多かれ少なかれ自分の命と交換しながら嗜好品を楽しんでいる。
誰かが煙草をやり玉に挙げて、どこかの財がそれを助長して、分らない者が大きなお世話を声高に叫ぶので、人はそれで良しとみなしているようだが、実態は煙草が人生に必須のものではないから誰かがやり玉に挙げてそれに追随したものがさも正義であるかのように叫んでいられるるのだ。
とはいえ副流煙が毒だとか匂いがきらいだと言われれば自制もするし火気厳禁とあれば火を付けることもないが、概ね煙草は灰や葉を散らして吸い殻などの跡形を残さないようにすれば自由に吸ってよいというのが自分のルールだった。(この跡形を残さないようにというのはその昔自衛隊の体験入隊で教えられた方法でその合理性に納得している。今でもそうか分からないが・・・)だから特に禁煙とされていなければ灰皿が無い場所でも吸ったし、ズボンの右ポケットには吸い殻が入っていた。

自分に残る古い煙草の記憶は父に背負われながら庭先で父の吸う煙草の青い煙がいい匂いだなって思ったこと。その父は病気で倒れるまで煙草を止めることはなかった。あるとき煙草を吸わなくなった父の前で煙草を燻らすと父は嫌そうな顔をしたのでそれ以来父の前で煙草をくわえることはなかった。(その時は病に倒れればきっと自分も煙草を吸わなくなるだろうと思った。)
昔は父の使いで煙草を買いに行かされたので両切りの“ピース”、“いこい”、“しんせい”、“ゴールデンバット”などの銘柄のほかに紙巻口付の“朝日”などもあったと記憶している。なかでも父は“いこい”を好んで吸っていた。
義務教育を終えると自分は時折父の“いこい”をくすねたりもしたが高校を卒業してから自分で煙草を買うようになった。初めて買ったのはチャコールフィルター付きの煙草“セブンスター”で両切り煙草よりも吸いやすく軽い感じがした。

煙草吸いは風邪をひいても煙草を止めない。風邪のひきはじめはいつもの煙草を吸っていてもひどくなってせき込むようになるにつれて軽い煙草に替えても煙草くわえるのだ。そのうち火を付けていない煙草をくわえただけでせき込むようになると一時煙草を我慢する。全く、ばかげている。そうして一週間ばかりたって調子が良くなるといつもの煙草にもどすのだが、最初の一服には思わずクラッとすることがある。全く、ばかげてる。

一日に吸う煙草の本数は会社での役職が上がるとともに増えていった気もする。昔は喫煙者が自分の机に灰皿をおいて休み時間に煙草を吸うのが当たり前だった。やがてそれも制限されて非喫煙者に配慮した喫煙コーナーが設けられ、次には分煙を目指して喫煙ルームが造られたりもした。ただ緩やかな分煙の時代だったので上司が喫煙者なのを良いことに煙草が吸えて珈琲が淹れられる会議室を設えて、そこで煙草を吸いながら仕事するなどしたこともあった。一時ストレスから逃れるための喫煙であったのだと思う。やがて屋内は全面禁煙になり、一時のストレス解放は屋外の一角に設えた喫煙コーナーに限られることになったが何かしら理由を付けては喫煙コーナーに足を向けた。
とにかく、何かにつけて煙草を吸い、およそ43年間、1日20~30本を吸っていたのだ。

そうして無理に吸わなくてもいいかなと思って机の上に置いておいた吸いかけの煙草のパックは一週間ほどたってからゴミ箱に捨てた。
長年の習慣で反射的に右胸のポケットに手がゆくことがあったが煙草は持たないので吸うことはなかった。
禁煙でもなければ、休煙でもない、嗜好品として欲しくないので吸わないのだ。
煙草を吸わなくなって、煙草に縛られない自由を実感している。
(加えて、RAの減薬がうまくいっているのは、もしかしたら煙草を吸わなくなったせいかもしれない・・・)


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心的外傷 [追憶]

4月11日 今日は同窓会。僕はあまり気乗りがしなかったのだが意を決して出席した。
40数年ぶりとなる幼なじみとの再会は、思い出せない顔、思い出せない名前、思いのほか老いたものなど、自分のことははさておいても、まるで浦島太郎が玉手箱を開けたようなものだった。
一般には幼なじみとの再会は楽しみとなるべきものだが、僕には今日が近づくにつれて何かしら嫌なものと出逢うような緊張があった。つまり幼稚園や小、中学校での生活はある種の心的外傷を僕に与えていて否定的な影響をもっているようなのだ。
もちろん幼稚園や小、中学校での生活には楽しい思い出も苦い思い出も甘く切なく思い出もある。中には残酷な思い出も、背徳あるいは罪悪感を伴う記憶もある。それらは良くある話に含まれるものに違いない。ただ、その中で意識の底深く流れているものにある種の怖れの感覚があるのだ。
言葉で表すのは難しいが、同級生の“群れ”のなかに居ても、時折は群れのメンバーと僕は何か違うというある種の違和感、懐疑を感じることがあった。それは、子供心に自分と他人の明確な区別であり、他人の集団のなかでどこに自分をおくのかという問題でもあった。
猿山の猿が群れの中での序列を感じながらそれを疑うようなものだから、ふとした折に“群れ”への怖れを感じたり、予期しないメンバーの反応に戸惑ったりすることもあった。
それらは、先天的に備えている性格という面もあれば、後天的に学習した面もあるとおもうのだが、同級生たちのそれぞれが持っている価値観や感性に不用意に反応してはいけないとも感じるようなものでもあった。
ましてや彼らが子供社会の正義感や当たり前論を背景に僕に向かってくると、僕にとって彼らは理解を越えた怪物に見えた。(あるいは、それは彼らが彼らの家庭や地域の環境の中で自然に身に着けた常識なのかもしれないのだが・・・)
それなので僕は、あえて僕が他人とは違うのだということを意識することでその否定的な影響と対峙しながら群れに紛れていた。
つまり、このことが心的外傷として残っているのだと改めて認識した。
幼なじみは齢を重ね各々が夫々の顔を作っている。
甘い記憶のある顔も、苦い記憶のある顔も、皆は何かしら今までの時を肯定して納得して幸せな顔をして近況報告をしている。はたして自分も同類ではあるが・・・。
少し酔いがまわったころになって昔の群れのリーダー格は当時の僕をして“こいつは少し澄ましたところがあって・・・”などと評したが、その実は僕が受けた心的外傷がなせる業だったのだ。

絹の装幀 [追憶]

それは彼女に勧められた本だったのだろうか。
それとも何かしらのきっかけで、一つの愛の形として話題に上がったのだろうか。
あるいは、こんな風に愛し、こんな風に愛されたいといった議論に出てきたのかもしれない。
とにかく、それらしいことをきっかけに僕は黄色い箱に入った紅の絹の装丁の本を手に入れたのだったと思う。およそ40年くらい前(1978年頃)の事である。
その頃の彼女は僕よりもずっと真摯に生きること対峙していたし、新鮮な感性で悩み考えていたと思う。それに、もしかしたら壊れてしまうかもしれないという若い儚さをも感じさせた。「智恵子抄」はそんな彼女の話しに出てきたのだ。その頃の僕には彼女の言う「智恵子抄」の“それ”を理解できるわけもなく、そんな彼女の感情を受けとめられるほど成熟もしていなかったが、僕は自分を力を顧みることもなく「彼女を守るべき存在」と感じていた。そうして「智恵子抄」の“それ”を知るべくその本を購入した。
絹の堅表紙は独特の風合いで指先に触れた。
光太郎と智恵子はおよそ平凡とは言えないどちらかと言えば不運な境遇にあったといえる。はたして智恵子にとってどうであったかわからないが光太郎にとっての二人の関係については羨ましくもあるようにも感じた。(今にしてみれば智恵子を幸せにできなかったことを男の抒情で覆い隠しているのだと言えなくもないが・・・)
僕は光太郎の真摯さと一途さには共感したが、このような感情の吐露は当時の自分には憚られて、それは何かしら軟弱な生き方のようにさえ感じた。当時の自分は深い悩みの底にいるわけでもなく、癒えそうもない傷を負っているわけでもなく、漠たる不安はあるもののリッジラインを歩いてわけでもない。自分には残された時間が無限にあるようでもありで若さに依存して一つ一つを乗り越えれば何とかなる。そんな風にしか未来を予測できないということでもあった。未だ未熟であった自分には光太郎の心の内を感じる余裕などなかったのだともいえる。
同時に僕はある種の高慢さをもって彼女を愛するということについて自信を持っていたが、それは単に僕の意思と覚悟であって、それ以外の裏付けがあったわけではなかった。それは、若さの極みだったかもしれない。
流されることなく自分は自分で居たい、そういう心境から天邪鬼で酔狂を良しとしてきた自分だが、それとて信念があったわけではない。自分が何者でどこから来てどこへ行くのかぼんやり考えても答えをもっていなかったし、ただ、今とその先にいる自分が得体の知れないものに縛られることは良しとしないのは勿論のこと、何かに囚われず自分が自由であることが生きることの必然であり唯一の論法であった。もとより自由など何かしらの制約との対比でしか存在できないが、避け得ない必然を除いては自分の意思のほかに自分を制約するものを良しとしなかった。言い換えれば、ただ、そのことのみを拠り所に彼女に対峙するしか無かった。
そんな風に感じるなかで「智恵子抄」の“それ”は僕にある命題を課した。
「光太郎がしたように僕は彼女が壊れてたとしても愛することができるか。」
つまり「僕が愛する彼女の実体はなにか?」ということでもあった。
今ならは命題などといってそれを言葉にすることができるが、当時の自分にはこの問に答えを出せるべくもなく、この命題を表に出すことは憚られ意識の中に潜ませるしか無かった。当時、彼女との間に光太郎と智恵子の話題が出たのは、もしや彼女がこの命題を僕に突きつけるためだったといえなくもない。そうして、今に至っている。

光太郎智恵子はたぐひなき夢をきづきてむかし此所に住みにき

ふとしたきっかけから光太郎の「うた六首」にふれる機会があった。
なにか気にかかって「智恵子抄」を読み返してみた。(絹の装丁は本棚に入れたままに、今時はiPhoneで)そうして読み返しているうちに意識の底に置いてあった「命題」が思い起こされた。
昔と違うのは、彼女と僕は結婚していること、僕はこの「命題」に自分なりの答えを見出していることである。
彼女の一生懸命さは今も続いていて、思いがけないこともあったりする。それは可愛らしくもあり、それに嫉妬することさえある。勿論、彼女は壊れていない。
そうして「命題」の答えは自分がそうだと感じているには違いなく、確かに胸の内に有る。それは美しい誤解かもしれない。

5月29日


狩猟にまつわるよもやま話 [追憶]

昔、母から聞いたの話
父は、若いころ幾度となく"鉄砲撃ち“をやりたいと母に持ちかけたらしい。
鉄砲撃ちといっても職業として猟師になるというのではなく、趣味としての狩猟をやりたかったらしい。
僕が子供の頃は隣の家の大工さんは空気銃を持って近くで雀などを撃っていたし、散弾銃を持って野鳥を撃つ人もいたし、猟犬を連れて遠出をして鹿などを撃つものもいた。
幼い頃の僕はそれを昔から続いている生活の様に感じていた。とはいえそれが生活のために必須ではないことも分かっていた。それで僕は鉄砲を持って猟をするのは昔の生活の名残り或いは回顧的な気分がそうさせるのであって、ある種の男の嗜みの一つなのだとも理解していた。母も男の“嗜み"としてのその辺りの気分は理解していたらしい。
とはいえ母は、「隣のおじさんが銃を持って出歩くと雀が何処かに逃げてしまって居なくなる。雀だって分かるのだ」と父を窘め、そうして母は「無用な殺生はするものではない」と父の要求を撥ねつけたのだと言った。
僕には、父の心持もわかる気がするのだが・・・

昔、父に聞いた雉撃ちの話にまつわる思い出
父は僕に雉撃ちの話などすることもあった。アウトドアの世界で“雉撃ち”といえばそれはは屋外での排便行為であるが、猟としての雉撃ちは、鉄砲を持って茂みに潜み、雉笛を鳴らして雉をおびき寄せ、近づいてきた雉を撃つ(定かではない)のだという話を聞かされた。幼心に雉笛の音や、茂みに潜む姿を想像し、なるほどと思う一方で、何か狡賢く、せせこましい感じを受けた。同時にその猟場は、たぶん“平野”あたりであろうと幼いながら想像した。大川の河畔林も猟場であるには違いなかったが、なぜか“平野”が思い浮かんだ。
そこは今では住宅公団の団地になっているが、僕が幼いころは。ゆるくうねるような丘陵地に雑木林と畑地が交互に数キロにわたって広がっていて、子供の頃には畑仕事や雑木林の下刈りをする父に連れて行かれた場所でもあった。人工物は未舗装の道と畑だけで、道沿いに人家は無く、外灯もなければ電柱さえも無かった。時期になればユリが群れ花開く林もあれば渇水の夏でも水の枯れない小さな沼もあったが、“平野”は広大な雑木林で子供心にも父親の所在を意識しながら遊ばないと迷子になりそうな気分になる場所であった。
幼かった僕は父からはその沼に一人では近づいてはいけないと厳しくいわれていた記憶がある。そうして幼かった僕はその沼を底無し沼だと勝手に思い込んでいた。本当はどうであったのか分からないが、住宅公団が団地を開発し集合住宅がその沼があった辺りに建設されると分かった時には、そこには建てるべきでないというようなことを父が話したことも覚えている。果たして、団地が竣工して数年たつとコンクリートの建物の壁には大きなひび割れができた。父が話した通りになったのか・・・

狩猟が解禁する頃の思い出
僕が子供の頃は、近くを流れる大川の河川敷、河畔林では冬場になると実際に銃猟が行われていた。
大川の川沿いには河原につながる葦原や雑木林があって当時は禁猟区ではなかった。だから確か11月1日の狩猟解禁の朝になると大川の方から鉄砲の音が響いた。獲物は鴨や雉だったのだろうか。この狩猟解禁の時期には子供心にも大川の河原で遊ぶのは危ないと分かっていたので遊びに行くことはなかった。仲間内からはこの時期に河原で遊んでいたら散弾銃の弾がパラパラと降ってきた話も聞いていた。
とはいえ猟区は広くないので獲物がいつまでもそこにいるわけもなく数日もすると鉄砲の音はしなくなった。
この大川は春夏秋冬を通じて子供たちの格好の遊び場だった。大川の河原で遊ぶには小学生でもナイフ(肥後の守)と燐寸(マッチ)は必須であって、ナイフ一本で木の枝や篠から遊び道具も作り、燐寸をもって河原で焚火をしたリした。勿論、悪戯に土手に火を放つ“野火”は暗黙のうちご法度と知っていた。それでも時には河原の冬枯れ薄の株を燃やしたりしたが思いのほか炎が大きくなりって怖気づくこともあった。ちょっと危ない匂いがする遊びを遊び仲間の前で小心を隠すようやって、少し大人ぶったようにみせる。大川はそんな風にして自分と仲間と自然との間合いを知る格好の遊び場だったきがする。

狩猟はどうやら男の奥にある本能の一部分なのかもしれない。それでフライフィッシングによるヤマメ釣りは狩猟なのだと思うことがある。

Standchen“3月のある夕べ”の断片 [追憶]

僕は彼女と結婚するすることを真面目に考えていたし、その為の心積りをしていたのだが、就職が近づくと何故かしら恋の行く末と仕事を持つことの現実との隙間をうめる自信が持てなくなっていた。

1978年 春
それは彼女の何気ない一言が発端だった。
「それで、いつA社に入れるの?」
僕が某大手A社の関連会社に就職が決まったことを告げると、それに倣うように彼女は言った。
それは、世間を知らない小娘の他愛のない一言であったが、いずれ結婚すればその仕事が僕らの生活をささえるのだから彼女のそんな期待もわからないわけではなかった。 しかし僕は新しく入る世界に自信が持てなかったので彼女の一言に言い返すことをしなかった。
その頃は第二次オイルショックの影響もあって大卒の求人も少なかった。野心を抱くものは手当たり次第に求人にあたり大手企業への就職を目指していた。僕はといえば感傷的で奔放な大学生活を終えて、就職という何かしら“べき論”に服従し、勝ち抜き競争を余儀なくされることに憂鬱なものを感じていた。だから少ない求人カードから適当な就職口を見つけはしたが将来に希望を持つような気分でもなかった。彼女の一言はそんな僕の気分を見透かしたようでもあった。
実際に、僕が彼女の一言を打ち消して、そうでないことを分かってもらうには時間がかかる気がした。
就職して働くとなれば遠距離恋愛になおさら時間が取れなくなる。
そうして、僕は、彼女の一言を受け止めて、近い将来に現実に訪れるであろうをぼんやりと想像してみた。そんな想像を僕が彼女に話したとして、その先はどうなるだろうかとも想像してみた。
彼女は将来に自信がない僕を見限るのか、それとも、その先に二人の将来に希望を見いだそうとするのか。
僕は、自信の無さを彼女に励まされつつ新たな課題に二人で立ち向かう事を願うこともできたが、同時にそれは自分の弱さを彼女の前に曝け出すことにもなる。
そんな自信の無い僕を彼女はどう思うだろうか。そう考えると臆病な僕は彼女の一言を打ち消すことができなかった。あれほど慕わしく大切に思っていたのに彼女の前で僕は自分をさらけ出せなかった。僕は自分を投げ出す覚悟などなかったのだ。

そうして、3月のある夕べ、どちらから言い出すでもなく「もう、これからは電話しないよ・・・」が最後に交わした言葉だった。


追憶1977
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Standchen [追憶]

12月8日 気にかかることがあっても時は過ぎてゆくので季節の作業を進めなけれいけいない。そう思って葉が落ちた庭木の剪定を始めた。毎週末に庭木の枝を下しても離れの庭まで整えるにはひと冬かかる。例年と違って今年はイヤフォンを耳に音楽を聴きながら枝下しを始めた。
僕は天邪鬼なのでiPhoneにはクラシックから演歌まで入れている。節操がないと言えばその通りだが、折々の情緒にあった曲を聞いている。演奏に息遣いを感じ入ることもあれば、作った人の情に想いを巡らせたりもするが、一番は情緒だったりする。
初めは美しいとか、気分に合っているとか、何かしらの情緒を感じるわけだが、繰り返し聞くなどすることで、音楽が折々の情緒と共に躰に摺りこまれていく。そうして、その音楽を聞くことによって躰に記憶された様々な情緒が揺り起こされてくる。音楽は情緒に直接働きかけてくるのだ。

若いころに覚えたMarschnerのStandchen(Warum bist du so ferne ・・・Wolff)などは、そのころ特に想いを寄せた人がいたわけではないが、夢に満ちたそれでいて人を想う甘く切ない恋心の情緒として僕の奥に摺りこまれている。Wolffの詩は遠く離れた恋人を慕うものだと思うが、この歌を覚えた数年後、大学生の頃に僕は期せずして遠く離れた音大生(ピアニスト)と恋に落ちた。それは、いわゆる遠距離恋愛でもあり、遠く逢えない時の想いを募らせ慰めたのが、このStandchenやピアノだったりした。

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1975年 僕が大学2年の時、彼女との出会いは旅先の夏の信州だった。僕が旅の手慰みに宿のピアノに向かっていたところに偶然に泊まり合わせた彼女がいたのだった。その時の曲はポール・モーリアの涙のトッカータだった。それは僕がピアノ用におこした稚拙なものではあったけれども彼女もその曲が気に入っていてピアノを弾いていた僕に話しかけてきたのだった。(後になって、手書きの楽譜を彼女に渡した記憶がある)
その宿には僕も彼女もそれぞれの大学の仲間とともに泊まり合わせたのだけれども、その日はなんとなく離れがたくて互いの仲間をさておいてピアノの前で時を過ごした。それぞれが好きだった涙のトッカータと、それぞれの情緒が共鳴して、この一瞬で恋に落ちたのだった。
ピアノ曲といえば若いころに患う夢見がちな恋心にはChopinのそれは甘美であったりする。音大生の彼女もChopinが好きだったし工学部の学生だった僕もその例に漏れない。
とりとめのない話をする中で彼女は僕にChopinのどの曲が好きなのか問いかけてきたので、僕は「特にBalladeの3番!」と答えた。(その頃は本当は1番が好きだったが・・・それ以外に僕が彼女を試したことはない)すると彼女はその曲を思い返すように上目遣いに頷いた。
僕は彼女に何番が好きなのかは聞かなかったが、そんなこともあって互いの気持ちが通じあえるような必然を感じていた。そうして翌朝にはお互いの連絡先を交換して別れた。
それぞれは信州を周遊するような旅でもあったので、幾つか先の目的地で再び出逢ったような、ぼんやりと甘い記憶もある。いや、それは二人で再び訪れた少し紅葉の始まった清里だったかもしれない・・・

そうして、恋に落ちた僕と彼女は遠距離を苦にすることなく逢うようになった。遠く金沢で待ち合わせたこともあれば、毎月のように東名高速をひた走り岐阜や名古屋でデートを重ねた。
彼女の家は長良川を渡った先にあり、忠節橋、金華橋、長良橋のいずれかを渡らねばならなかった。このうち忠節橋と長良橋には名鉄の路面電車が走り、金華橋は朝夕の混雑する時間に中央線を変移させるので初めの頃は戸惑ったが、何度か通ううちに市内のワシントンホテルからの道も迷うことなく慣れるようになった。

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デートと言っても、週末のアルバイトで稼げる金は少なかったので、お気に入りの曲をカセットテープに入れたものを聞きながら木曽三川をドライブしたりした。二人でピアノのコンサートなどにでかけたことやナゴヤキャッスルホテルの窓から名古屋城を見ながら食事をした記憶もあるが、遠い記憶の断片をうまくつなぎ合わせられない。
また、時折は信州のとある駅で待ち合わせするなどもした。それには彼女が中央西線で、僕が中央東線あるいは信越線で行かなければならなかったので逢えた時の心持はいつもドラマチックだった。当時の遠距離恋愛では互いの想いを交わすのは手紙や夜更けの黒電話しかなかった。やさしい手紙の筆跡に思いを馳せ、受話器の声に思いを込め、次に会う時を心待ちにした。だから、逢えない時間は想いを募らせるしかなく、それを慰めるのも音楽だった。そうして、遠い信州の眩しい夏の日の駅や雪が舞い降るホームでの待ち合わせは切なくも待ちわびた分だけ嬉しく感動的だった。
たしかに、安曇野の白いペンションや松本で時を過ごしたりしたのだが、もはや思い出は輪郭を失い断片の記憶と情緒だけが躰に残っている。

女性としては背が高かった彼女はそれを気にして僕と逢うときにはヒールの高い靴を避けた。細い指でピアノを弾く彼女は色白で口元に小さなホクロがあり、ルノアールが描いた風と言えば、ちょっと美化し過ぎかもしれない。その彼女との恋も僕が就職を決めたころに終わりを告げた。
僕は彼女と結婚するすることを真面目に考えていたし、その為の心積りをしていたのだが、就職が近づくと何故かしら恋の行く末と仕事を持つことの現実との隙間をうめる自信が持てなくなっていた。そうして、3月のある夕べ、どちらから言い出すでもなく「もう、これからは電話しないよ・・・」が最後に交わした言葉だった。
同時にChopinの甘く官能的な情緒は新しい生活には不釣り合いな気がして、しばらくChopinを聞くことはなかった。

音楽は時に、片恋の慕情を煽りもすれば、悲劇的な失恋の感傷を繰り返し甘く撫ぜたりもする。
Standchen・・・


Standchen (Warum bist du so ferne) は Gute Nacht とか 小夜曲 とも呼ばれています。  Gute Nacht - Dresdner Vocal Quartett などはいかが・・・


追記: 手紙とともに全部捨てたはずなのに・・・2020年古い写真の中から思いがけないプリントが出てきた。1975年 清里での出合から、追憶に慕情がよみがえる・・・遠い日のこと・・・


 

 

 


中仙道 [追憶]

11月24日 テラスで紅茶を楽しんだ後はどこに行く当てもなかった。それでも僕の頭の中にはぼんやりと、中仙道や北国街道のイメージが映っていて、追分のほうにでも行ってみたい気分だった。それを承知で僕はおどけるように「アウトレットにでも寄ってから帰ろうか?」と言うと彼女は首を横に振った。僕とて立ち寄るつもりなど毛頭ない。それよりも冬枯れの林を歩くほうがずっと好きだ。
僕たちは朝の散策で行けなかった雲場池に寄って見ることにした。
もう紅葉は終わっているころだから、木の葉は落ち、美しい木肌が露わになり、枝先には新芽が用意された林の中に、池はひっそりしているに違い。そう思って池の近くまで来ると思いのほか人が多い。僕らは何かしら興が覚める気がしてそこを通り過ぎ、あてもなく追分に向かった。

中仙道を軽井沢から追分に向かうと色々なことが思い出される。僕が何となく追分や軽井沢に引かれたのは、堀辰雄や立原道造にふれてからのことだ。そのことのために軽井沢、沓掛、追分を訪れたわけではなくとも、ここを訪れると、知らずのうちに小説や詩の中の風景を探していた。
あの頃は、高速道路が伸びていなかったから、117クーペの助手席に彼女を乗せて国道254をひた走り、横川からは碓井峠の旧道をぬけるか碓井パイパスを通ってここまで来た。(和美峠、内山峠、十石峠を通ることもあった)幽玄な碓氷峠の霧を抜けると落葉松の向こうに軽井沢が広がっていた。

僕たちは観光ガイドに載るような名所を巡ることはほとんどなかった。皆が一度は訪れるであろう場所でさえ、いつでも来れるからと言い訳にして、その実は訪れていない。皆が行くからとか、有名だからとかということは訪れる理由にならなかった。そのくせ、何かしら自分たちのこだわりのために、こうした場所を訪れるのを苦にしなかった。誰かの示した価値をそのまま受け入れることはなかったし、二人とも色々な価値の基準を自分に置くことを良しとしていた。そうして、そのことにより動かされていた。損や得ではなく、ましてや他人の目を気にするでもなかった。(マナーには配慮したがホスピタリティまでは持てていなかったかもしれない)同時に若い二人はそう考え行動することを内心誇りに思っていた。
こうして齢を重ねていろいろな事を学んだりしても、二人ともそのことは変わらないでいる。(ホスピタリティも少しは身に着いていると思う)

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追分では中仙道の旧道の面影や分去れの先に北国街道の名残を訪ねたこともあった。今ではそれらもぼんやりとした断片の記憶でしかない。助手席に座っている彼女も記憶の断片をつなぎ合わせているようでもある。
図書館、デキ12、白糸、鬼押出し、油屋、分去れ・・・

旧道沿いに中仙道をたどり油屋の前までくると彼女は懐かしそうに写真を撮った。
斜め向かいには堀辰雄文学記念館がある。僕たちがここを訪れていたころには未だなかったと思う。
昔の僕には、風景の中から純粋な部分を切り抜いたような彼の小説に憧れていたようなところもあったので、懐かしい想いとともにここを見て回った。
今では、あまり読み返すこともないが、昼食の折には堀辰雄の「あいびき」を彼女に勧めた。
iPhoneに入れておいたそれは短編なので彼女は直ぐに読み終えたが、僕は彼女に感想を聞かなかった。
その後は、追分宿の資料館、軽井沢駅、旧三笠ホテルなどを、初めて見て回り、帰路についた。

彼女は昔の青かった僕を思い出しただろうか・・・
今もEvergreenでいる僕に気付いたろうか・・・


万平ホテル [追憶]

11月23日 夕食は彼女と向かい合わせの席でとった。
僕たちが付き合い始めた頃はとても若かったから、こういう席では彼女は少しだけお嬢様然と振舞ったし、僕もそんな彼女をたどたどしくエスコートした。周囲には少し背伸びしている風な二人はどう映ったのだろうか。大人たちは若い二人にもホスピタリティを持って接してくれたから、僕たちは幸せ溢れる特別な存在を意識させられた。

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そんことを思い出しながら僕はといえば少しお酒を飲みながらリラックスしていたが、彼女は少し周りの目を意識しているようでもあり、時折、すました少女のような仕草を見せる。なんだか昔にもどったようで幸せな心持ちになった。
奥の方の席では誰かの誕生日を迎えたお祝いをしているようだ。バースデーソングが流れ周りの席から拍手が起こった。

11月24日 翌朝はテラスの席での朝食をと考えていたが、少し遅くなったせいでテラスの席はとれなかった。僕は中庭が見える席を彼女に勧めて、朝食のメニューにミルクを追加した。
朝食の後は雲場池まで散策するつもりであったがハッピーバレーで思いのほか時間をかけてしまったので犀星記念館の前をぬけてホテルまで戻った。男子たるもの車道側に立ち彼女を守るように散策すべしと気を使いもしたが彼女はそれを意に介す風ではなかった。それでもサカサと落ち葉を踏んで歩くのが心地よかった。

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昔、万平ホテルのロビーには大きな黒いストーブが焚かれていて、テラスは冬場になると透明な塩ビシートで風をよけがされていた。訪れる人もそんなに多くなかったから、二人は冬の日差しの中でのんびりとミルクティーをのみなが過ごしたことがあった。彼女はそれよく覚えていて、遅いチェックアウトの後には快適になったテラスでミルクティー(給仕ははそれをロイヤルミルクティーと言い直した)を楽しんでからホテルを後にした。