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信濃デッサン館 [追憶]

11月23日 妻を伴って信濃デッサン館を訪れた。
ここ塩田平には紺青と白のツートーンカラーに塗り分けられた丸窓の電車を追いかけて何度も来ている。もちろん彼女も伴って訪れたこともあるが、それも電車を追いかけてのことだった。

千曲川の赤い橋梁を横目でみて別所線に沿って塩田平に向かった。
上田原の車庫(今はなくなっている)の手前にある赤坂上駅の踏切を渡り、寺下を過ぎて神畑駅の近くまで来ると、彼女は急に思い出したように「神畑」(かのはた)と呟いた。何十年も前に僕と巡った別所線のことは覚えていても駅の名前までは忘れていたようだ。遠い昔の記憶でもあり妻は「神畑」をどこか関東近郊の駅の名前だと思い違えていたらしい。
その神畑、大学前を過ぎると下之郷駅がある。駅の隣には生島足島神社があり祭礼(新嘗祭)が行われていた。
信濃デッサン館は生島足島神社の脇をそのまま進めば分かり易い道筋になるが、つい昔の様に神社の角を右に折れて中塩田に向かってしまった。昔、学生だった時には下之郷駅ホームに野宿したことがあったし、下之郷駅を出たところの別所線の大カーブが急に懐かしくなったのだ。

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信濃デッサン館は独鈷山の麓の前山寺の参道脇にある。ここを訪れるきっかけは再恋の妻を万平ホテルに誘う口実として後から付け足したものだが、もう一つは、ここに展示されている立原道造が残したスケッチや直筆の原稿などを見たかったということでもある。
僕は、彼の様に建築ではないけれども、設計の仕事をしている。今では自分で図面を描くことはなくそれらは部下に任せているが、一枚の図面に必要な絵柄を構成していく作業は設計の本質とは違う事ではあるが、図面を通して絵を描くような楽しみがあるのも承知している。設計の着想や出来上がりをイメージするときには、スケッチを行う。気に入ったデザインや構造や機能を絵にしてみる。それは美術におけるデッサンのようなものかもしれない。そうして気に入ったものになるまで何枚も書き直したりする。一枚の紙に、全体やら、部分詳細やら、注釈やらを書き込み、絵柄の構成を考えて仕上げ、タイトルと日付、サインを入れる。そんな、楽しみも知っている。
ギャラリーには何人かの作品が展示されている。昔は美術部に入っていて絵を描いていた彼女は熱心に見入っている。いくつかのデッサンには、今の僕の心持を揺さぶるものがあった。それがどのような心持でであったのかは胸に潜めておくとして、立原道造のそれはどうであったかというと、彼のブルーブラックのインクで書かれた詩の原稿と僅かな建築のスケッチを見て、なんだかより親しい関係になれた様な気分がした。

信濃デッサン館に併設されている幾つかのギャラリーを見た後で無言館にも訪れてみた。
美術、僕はそれを楽しむのに少し引っ込み思案でもある。それは音楽のように情緒に直接作用しないし、文学のように言葉を通して認識に訴えることもしない。だから、美術は、自分から何かしらを捉えようと一歩踏み出して観ないといけない。ところが世界的に有名な作品であっても、世間一般に言うところの感想を持てないこともあるので、自分から踏み出した一歩も、ほかの人の目(すでに定まった評価)を気にすると、何か胸を張れない。音楽や文学に好き嫌いがあるのだから美術だって好き嫌いがあっていいのだが、おおよそ、馬鹿げているとわかっていても、それが引っ込み思案の一端になっている。(全く馬鹿げている)
無言館には出征し亡くなられた二十歳過ぎの画家が遺した絵が展示されていた。
いくつかの絵に添えられたコメントは涙を誘う。それを堪えて、あらためて一歩踏み出してみると、妹をには限りなく優しい眼差しが、裸婦に真摯な想いが、妻には愛おしさが溢れ・・・絵に込められたそれぞれの想いがひしひしと伝わってきた。

戦争の時代を作ったのは人。それでは、その人の中の一人である自分は、そのこととどのように向き合えば良いのか。知らずのうちに時代に教化されて流されてはいないか・・・流されないためにどう考えたら良いのか、改めて考えさせられた。
そうして、同時に人を想う切なさも・・・



翌朝、万平ホテルで出会った紀尾井町の画商はこんなことを言っていた。
一、およそ30万人いる画家のTop300以外の絵は買うな。
一、いわゆる評価価格の1/5の価格、あるいは1/10の価格で買え。
一、どんな絵にも100万円以上出してはいけない。
・・・これも絵の見方か・・・


週末 [追憶]

初めて妻を軽井沢に誘ったのは、もう何十年も前のことになる。
特別にどこを見て回るでもなく、銀座通りを歩いたり、あるいは追分の方へも行ったりしたと思う。私にとって彼女は愛らしく慕わしく守るべき人であったから、だから私は彼女を惹きつけて騎士のように振る舞えれれば幸せだった。

静かな6月の晴山館の朝、二階の窓からは朝露に濡れた芝の緑が鮮やかに靄の中を遠くまで続いていた。朝食は一階の窓際のテーブルに相向かいの席で何の飾りもない食器とシルバーが並べられ、あれは、たしか半熟の卵と暖かいパンと紅茶だった気がする。
今では簡便にミルクも入れないコーヒーを嗜むが、若い恋人には紅茶の方がその優しさが似合う気がする。

週末には軽井沢に行く。
人混みを貪るように観光地を巡るのは、何かしらあさましい気分がして好きになれない。だから、5月や8月の軽井沢は好きではない。
6月の静かな緑鮮やかな頃や、11月の紅葉が落ちた頃が好きだ。
冬には暖かいホテルのロビーで冬枯れの林を眺めるのもよい。愛おしい人とならば尚更でもある。
何かしら、遠い記憶がある。

遠き旅路にゆく人は
いとしきものをともなえよ
よろこびわらうよそびとの
などかかえりみん旅人を
・・・アイヘンドルフ

週末に妻を万平ホテルに誘っている。
立原道造や室尾犀星を口実にして・・・
(妻へ、昔の様に堀辰雄ではないぞ)

 


ヒヤシンスハウス [追憶]

11月3日 別所沼公園にあるヒヤシンスハウスを訪ねてみた。

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ひとつの詩を糸口に色々な思い出がよみがえり古い本を引っ張り出しながら読んだりしてうちに立原道造が構想していたこの”週末住宅”を見ておきたくなったのだ。元の計画では別所沼の東岸に建てる計画だったようだ。好きなことだけのための遊び部屋のようでもあり、こんなところで過ごせる時間が羨ましく思われた。

私が初めて彼の詩を見たのは高校の時だった。
その詩集には立原道造と並んでライナー・マリア・リルケやハインリヒ・ハイネの恋愛詩なども入っていたが、自分の青い時代との決別と共に、どこかに仕舞い込んだか、あるいは捨ててしまったかもしれない。
改めて手元に残した立原道造を読み返してみると
「詩とは僕にとって、すべての「なぜ?」と「どこから?」との問ひに、僕らの「いかに?」と「どこへ?」とのと問ひを問ふ場所であるゆゑ。」(別離)
とある。
男子16、17才の頃といえば子供がようやく人に変貌する頃でもあるから、人に、自然に、そして異性にも、心の内には新たに出逢うものと悩みが溢れる。
私は立原道造の「なぜ?」「どこから?」「いかに?」「どこへ?」に惹かれたのかもしれない。

高校時代には立原道造にまつわるもう一つの思い出がある。
私の通った高校は男子校であった。校風は自主自律な感じであって、生徒は伝統には従うものの、およそ理不尽な規則などに縛られることは無かった気がする。それでも、当時の全共闘運動の影響をうけてた生徒の活動(闘争)に端を発して新たな「生徒憲章」なるものが制定されたが、自主自律の前にあえて自由を追加したようなものだったともう。教師も我が校の生徒ならば思慮あるべきとして対処していた風でもある。
一方 で男子校ということもあり異性については畏怖と尊敬と憧れの目で見ていて、恋あるいは片恋の相手は同じ市にある女子校の某かを慕う者が少なくなかった。幸い(あるいは不幸にも)私の姉はその女子校の生徒だったので女子校の内情らしき事も話に聞くことがあって、その女子校生は恋の相手にはなりにくかった。
その頃、同級生の一人に小川町から通うTがいて、彼はその女子校の一人を慕っていた。
その子は小柄で目が合えば笑顔が返ってくる可愛い女子で、女子校の音楽部ではソプラノを担当していた。私も、音楽会か何かの折に言葉を交わすことがあったが、良家で大事に育てられたという感じがする生徒であった。3年生になってからは演奏会の時にソロを歌うこともあったように思う。
私たちが2年生の頃になるとTは今まで胸の内に秘めていたその子の名前を自分の口からあからさまに出してその子の話するようになった。その子はKに住んでいて云々、話の中身はと言えば、彼女への憧れが主であり、そうして素敵な彼女を少しばかり理想化し、その子に惚れてしまっている自分を露わにして夢見るように話す。そんな風であった。
この頃の大方の男子がそうであるように、片恋を経て付き合いを始めるようになると、その相手の名前を挙げてその子の話をするようなことが無くなるのが常であるから、きっとTは未だに告白はしていないのだった。Tにとっては彼女を想うそのことだけでも幸せだったのかもしれない。
Tはその頃に詩作もしていて、その一編をもらったことがあった。もう、印象でしか思い出せないが、北風の中を彷徨い続ける旅人になぞらえて、何かを求めて、あるいは、旅人をして彷徨せるのものは何か、と言う風な詩であったとおもう。それは、片恋の女の子を語る幸せそうな面持ちとは対照的な印象であった。
そのTがよく持ち歩いていたのが立原道造の詩集であった。
当時のTの風貌は立原道造に似ていなくもなかった。

時を経て立原道造の詩集の幾つかを今時のスマートデバイスに入れては時おり読み返してみるが、たとえ黄ばんだページでも活字のほうがふさわしい気がする。

 


忍路 [追憶]

過去に刻まれた淡い印象に誘われて忍路を訪れた。
もう少し経てば雪になる。その前に訪ねておかなければと、そんな思いもあった。

小樽から塩谷、忍路、蘭島を経て余市までの道筋は幾度か通ったことがある。
いずれも自分のための旅ではなかったので運河や鰊御殿などを見て過ごし、ついでに余市の蒸留所で自分のためにモルトを買い求めるなどするだけで取り立ててこともなかった。
ところが、ふとしたことから私に刻まれている十代の記憶から、雪明り、忍路、どんぐい、月夜、・・・などが思い起こされて、今度は自分のために、その場所を訪れてみたい気持ちになっていた。

10月19日
 札樽道を降りて直ぐに山沿いに折れて小樽を見下ろす。
松ヶ枝を経て小樽公園から小樽港を見晴し
公園通りを下っては花園の路地裏を巡り
水天宮様からは運河や埠頭や眺めて昼食をとった。

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 手宮線を渡り詩人の草稿に目を凝らし
小樽日銀に往時を偲び
そうして、地獄坂を振り返りながら
白樺の黄檗色の木漏れ日の下を展望台まで登った。
 道すがら、私の記憶と、この日のために再度調べたことなどを交えて、
まるで自分のことのように妻に話しながら廻った。
私の奥にあるものは気恥ずかしく伝えられずにいても
その想いは伝わったかと思う。

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 夕べには妻の友達である新婚の夫婦を交えて、人力車で小樽の運河沿いを巡り
夜の展望台で満月を映した小樽港と街並みを眺めてから、夕食を共にした。

10月20日
 朝にオタモイをクルーズすることも考えたが、すでに運航は終了している。
オタモイは今回の旅の気分がそがれる気もしていたので、行かぬほうがよかったと思う。
その代わりに前回の旅で行くことができなかった青山家別邸を訪れ、
その豪奢さに一抹の寂しさを感じたままに小樽環状線に向かった。
 伍助沢に向かうと、穏やかな起伏に黄葉を始めた楓や白樺の林にナナカマドの紅が美しい。
塩谷に近づくにつれて背が高く葉を落としたドングイが増えてきた。
この地の詩人の顕彰碑に立つと塩谷の集落が一望できる。
詩人は、この先の徳源寺の脇を塩谷駅まで行ったに違いない。
 小樽フルーツ街道を蘭島に向かい、途中で右に折れ
函館本線を越えて坂道を登ると右手に石狩湾を望む忍路に入る。
今どき”潮風で白くなった板戸”は想像するしかないが
家並みは通りに沿ってひっそりと静かな忍路湾に続いている。

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 欄島は海に突き出した忍路の丘を背に緩やかに砂浜が広がっている。
忍路へは観音堂の前の急坂を歩いても行くことができる。
私は若い詩人の足跡を思い出しながら、ひとつひとつ妻に話しながら歩いた。
 蘭島までくると雪虫が飛び始めた。妻は初めて見る雪虫に少しはしゃいでいる。
雪虫は処女生殖を重ね、冬を迎える前に雄を生み、交尾して、越冬する1個の卵を残すそうである。北海道ではこの雪虫が飛ぶと初雪が降ると言うが・・・私も初めて雪虫を見た。

その後は、いつもの様に余市に向かい自分のためにモルトを買い求めてから帰路に着いた。
忍路、なんとはなくも、ときめく旅だった。

 


寝息 [追憶]

妻は隣でやさしい寝息を立てている
小柄な身体で一生懸命に頑張ってきた
私はそれに少しヤキモチを焼いている
衰えて寝入る頬が充足の時を吸っている
そっと隣に滑り込んで腕枕をさしいれたら
私の首筋に寝顔を埋めるだろうか

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                          小樽にて

 


詩人の肖像 [追憶]

古い本が届いた。文庫本にしては想像していたより厚い。この文字の塊を読むにはすこし面倒だなと感じた。
それでも忍路を訪れる前に読んでおこうと思ってパラパラとめくると、端々の記述から触発されるように自分の記憶が呼び出されて、記憶とベージの断片と溶け合って自分の身に沁み込んでくる感覚を覚えた。
古めかしい文庫本の黄ばんだ文字の奥に、この詩人の時とと私の時を重ね合わせながら読み進めた。

詩人の肖像までくると、はからずも私は嗚咽した。(初めての経験だった)
ここまでに、すでに、私には、記憶の私と、私の今に、高邁で、臆病で、表向きの自分と、愛した人と、時を替え、処を替え、季節を替え、影の自分と、私の過ぎた時間と、過ぎた人と、感傷と、愛おしい人と、さざ波のように打ち寄せ、私を溢れさせていた。

読みかけの目の前に開かれたこの「肖像」は、 もっと、早く(それは人になりたての青い時代に)読んでおけばと、ささやかな悔いさえ思わせている。そうして何十年も私に刻み込まれた彼の詩は私の時のプロローグのように思えた。

私の時は私に刻み込まれている。

 

 


思い出 [追憶]

「雪明りの路」、今まで忘れかけていたが、喉の渇きを潤すように無性に読みたくなってきた。
模様替えなどで粗方の本は整理し何処かへ仕舞い込んでしまったが、幾らかの本は手近に置いている。
ただ、伊藤整の詩集は記憶にない。折をみて書店を覗いてみたが「雪明りの路」は今時の書店に並ぶこともないようだ。通販で調べて思い出の詩集を妻に購入してもらった。

あらためて手にした復刻版の詩集「雪明りの路」(椎の木社)は活版のページが懐かしい。
読み進めるうちに、十代の、あの、行方の分からない想いをもてあまし、優しく包む居場所を求め、心の赴くままに彷徨った記憶が蘇ってきた。
蘇る思い出を頼りに書架を探ると懐かしい本が残してあった。すっかり黄ばんだベージは、ようやく思い出してくれたのかと言わんばかりだった。少し不揃いな活版のページをめくるうちに、つい読みふけってしまう。

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幾つかの本からは栞がわりの音楽会のチケットや透かした木の葉が当時のままのに挿んであった。
そのうちの色紙を重ねた上に落ち葉が貼ってある栞には「1971 November 慈光寺」とサインが書き入れてある。たぶん、慈光寺で拾った落ち葉で作ったものだと思う。
秋の日の平村の寂れた釈迦堂が蘇ってきた。

平の都幾川沿いに山に向かい、宿の角を右に折れ、つづら折りを登ると、道沿いに境内が広がっていて、都幾川の渓を見下ろす南斜面の道沿いに釈迦堂があった。扉が閉ざされた小さな開山堂の脇に往時をしのばせる造りの大きな屋根の伽藍があり、それが釈迦堂であった。訪れる人も少なく、扉は開け放たれたままに中央には埃を被った大きな釈迦如来が座し、間近に拝することができた。慈光寺を訪れると急な石段を登って観音堂にお参りするのが常であったが、その前に釈迦堂まで登ってくると何故かしら伽藍の回廊の前で立ち止まり一息入れた。特に、木の葉が色づく頃は、静かな山寺の寂れた伽藍にゆったりと時が過ぎてゆく気がして、人恋しくなるとよく此処を訪れた。

その釈迦堂は30年ほど前に焼失した。


柳河 [追憶]

五月の連休を妻と共に柳河に遊んだ。
柳河と廃市に漂う、あの官能的な印象に患い、18歳のころから、そうして今まで平癒していないのだ。
雨の夕暮れ。どんこ船を貸し切り、水郷を宿まで下った。

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橋をくぐり、溝渠の築石、柳に、雨に・・・長年の想いを潜めてみた

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夕暮れに沖ノ端の方を望み、

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翌朝はどんこ船を六騎の街まで流してもらった。
柳のむこうには三神丸の舟舞台の準備が始まっている。
表の通りを歩かぬように沖ノ端を巡ると、積年の悩ましく慕わしい想いがゆっくりとこみ上げてきた。
傍らを行く妻を愛おしく思った。

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妻には祝言を挙げたころから「柳河に行きたい」と言っていたらしい・・・。

 


通り過ぎた交差点 [追憶]

3月30日
練習の前に音楽室の戸棚からウイスキー(たぶん)の瓶を出して一杯呷り、おもむろにピアノに向かいキーをひろってメンバーに向き合う。師の振る舞いはそうすることが当たり前のようだった。もう数十年も昔のことである。
およそ教師らしさのない師の振る舞いは魅力的だった。それは音楽に対峙する情熱を通した、ある種の博愛的に感じるものでもあり、温もりを感じさせるものだった。その空間は奉教人的で、ある種の淡く甘い憧れを惹き起こすものだった。
一方でその空間は何かしら自らが属すべき群れではないと感じさせるものでもあった。未だ青かった自分は、その根源を訝しく思い、何かしら馴染めないものを感じていた。当時の私は享楽的な身体に小乗的な精神で未だ青く、師の深い処を識るには若すぎたかもしれない。

40周年記念の演奏会に出かけた。昔を懐かしむわけではなく、あの時あの「交差点」にいた自分はなんだったのだろうか。振り返ってみたい気になったのだ。
ひと区切りを迎える歳が近くにつれて、あの時の青く、終わりの無い、その向こうにある何か夢見て、感性と本能のままだったような、あの時の「交差点」にいた自分を振り返ってみたい気がしたのだ。

会場では久しぶりに旧友に会うかもしれない。いったいどんな風に接したらいいのか。戸惑いもあったが、40数年の歳月は、僅かに昔の面影を留める旧友に確信を持って声をかけることを躊躇わせた。
懐かしい歌の数々のあとで懐かしい師の声が流されると思わず涙が溢れた。