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醤油ラーメン [追憶]

今から45年ほど前のことだと思うが僕らは長野に旅をした。(長野には何度も行っているので何時の折のことか忘れてしまった・・・)その日の宿は長野県庁に近いホテルだったと思う。僕らは色々巡って食べて巡っておなかが一杯になって夕方にホテルに着いた。 そんな風だからホテルについても夕食のために部屋を出る気分ではなかった。それでいて夕飯時には何か口寂しかったので僕らはフルーツの盛り合わせのルームサービスを頼んでそれをつまんだ。それでも夜半になるとやはりおなかが空いてきたので何か食べたくなってきた。フルーツ盛り合わせは残っていたがもう十分だったので外に出て何か食べようということになった。
外でと言っても当てがあるわけではなかったのでホテルのフロントに近くに店がないかと尋ねるとホテルの裏通りにラーメン屋があるというので僕らはそこのお店に行った。
街灯に照らされた赤いレンガ色のホテル外壁と大きな楠の植え込み抜けて道を渡りその先の暗い通りに件のラーメン屋があった。深夜になろうというのにサラリーマンらしき客が一人二人入っている。僕らが紺色の暖簾をかき分けて中に入ると、一足先に来た客が亭主に一言“ひとつ”と注文を伝えながら椅子に座った。それは常連客であろうかと思ったが“ひとつ”というだけで注文が通じるのかと僕は訝しく思った。
店は小さな木製カウンターと幾つかの木製テーブル、今風の赤や黄色を差した装飾はなく店の中を見回すといわゆるメニューらしきものも無い。正面カウンターの左上の壁に数種の品書きが下がっている。そしてその品書きには醤油ラーメンのみ、ほかにはゆで卵など付け合わせが数品書かれているだけだった。僕はそれをみて先客の一言の意味を理解した。そうして僕らも一言“ふたつ”と注文をして深夜のラーメンを食べた。
この思い出を妻に話すと記憶にないという。いったい僕は誰と旅をしたのだろう・・・。
そこは僕が小さかったころ叔母さんに連れられて初めて“中華そば”を食べたお店に似ていた気がする。

醤油スープに縮れた細麺、半切りのゆで卵、シナチク、鳴戸巻、ホウレンソウ、海苔、それから白胡椒・・・。

妻とラーメン屋に入ると妻は決まって醤油ラーメンを注文し胡椒を沢山振って食べている。最近になってこのことに気が付いた。確かに醤油ラーメンが好きなのは知っていたが気が付けは随分いっぱい胡椒を振って食べている。あれれ、入れすぎちゃったのかと驚いて妻に質すと妻は昔から醤油ラーメンに胡椒を沢山入れてたべるのが好きだったのでずっと前からそうしているという。そうして「今まで知らなかったの・・・」と。僕は40年も気づかずにいたんだ。

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Flashback [追憶]

1976年 機械工学科の3年生には製図の講義は必修だった。そのころはまだCADは無かったので製図板にむかいT定規に大振りの三角定規やコンパス、円定規などを用いて鉛筆で描いた。鉛筆の芯はクサビ状に削ったものを何本か用意して太さの違う線を引いた。製図器具セットには墨入れの道具(烏口とかいった)もあったがもはや使うことは無かった。
製図の講義は製図法など講義に出席して課題の図面を提出すれば概ね単位は取れる科目だった。それで講義の初めの頃に“製図用紙には決め事はないので新聞紙でも良いのだ”とかいうのでなるほどと納得した。とはいえ授業の作図演習にはケント紙を用いた。講義で投影法やら図法やらを学び作図演習などを終えると学期末には作図課題が与えられた。そのころ僕と彼女の遠距離恋愛は続いていて旅先で待ち合わせをしたり新幹線や東名高速で彼女のもとへ通ったりしていた。毎週末のアルバイトのお金はを貯めて彼女に会うための費用に充てた。

期末も近づいたある週末に僕は彼女と逢う約束をしていた。同時にその週明けには授業の製図課題提出も迫っていた。この課題の提出期限は週明けの月曜日なので週末をこれに充てれば造作ないことだが、そうすると彼女と逢うことができない。僕は自分の怠惰を後悔したがつのる慕情は彼女と逢うことの背を強く押した。そうして僕は、“ままよ、帰ってきてから徹夜して仕上げるだ”と自分に言い聞かせて彼女に逢うために東名高速に乗った。

遠く離れている分だけ逢瀬は甘く切ない。僕らは逢えば僕が彼女を家に送り届けるまで、翌朝は彼女がホテルの部屋まで僕を起こし来るか、どこかで落ち合うなどして一緒に居られれば幸せだった。そうして僕が帰る夕方までずっと一緒に過ごした。ただこの週末だけはいつもより早く彼女の許を離れねばならなかったので昼過ぎに僕は金華山の横を抜けて長良橋を渡り鷺山の麓まで彼女を送った。彼女の家は細い路地を入ったところになので彼女はいつものように広い通りで車を降りた。また逢えるのだと分かっていても帰る時には後ろ髪を引かれる思いだった。

一宮から東名高速に乗っても家に帰り着くまでは6時間ほどかかる。それから課題を仕上げることを考えると夕刻には家に着いていたかった。帰りの東名高速は幸せな逢瀬の余韻と課題の煩わしさの狭間で何とも言えない感覚だった。僕は休憩もそこそこにして睡魔を遠ざけるために窓を開けたり大声で歌ったりしながら東名高速を走った。そうして家に着いたのは午後7時過ぎだったと思う。夕食もそこそこにして課題に取り組み御座なりながら夜半過ぎには製図を終え、翌月曜日には課題を提出した。
午後の東名高速を117クーペの窓を開けて駆けるその時の感覚がフラッシュバックすることがある。色々なことを投げ出しても彼女に逢いにきたのだという高邁さと、残された課題をやりきらねば彼女を守れるはずがない、そんな未熟な想いとともに・・・。

これには後日談がある。僕は製図の講義には十分出席し幾つかの製図課題も提出したのだが期末には単位がもらえなかった。僕はその結果に納得できなかったので教授に理由を問うた。すると教授は期初に学生一人一人に貸与した資料のうち僕に貸した資料だけが返却されていない。期初に話した通り資料を返却しなければ単位は与えないというのだ。もちろん返却すれば単位を与えるという。僕は期末にこの手で教授に資料を手渡した記憶があったので間違いなく返却したのだと訴えたが結局単位はもらえなかった。学生に貸与された資料には通し番号がついていて僕が返却したのは他の誰かが貸与された資料だったらしいのだ。仕方なく僕は4年に進んでも製図の授業を再履修するはめになった。
そうして釈然としないまま製図の授業に出席して3カ月たったころ僕は同級生のF(僕らは同じクラブだった)にこのことを話した。するとFは教授に貸与された資料は返却せずにまだ持っているという。それでいてFは製図の単位を取得している。なんということだ、おそらく僕らが貸与された資料がいつの間にか取り違えられていたのだ。僕はFから資料を受け取り、それを教授に返却し改めて教授に単位を要求した。そうして3カ月遅れで単位を取得することができた。もちろんそれ以降は製図の授業には出なかった。

午後の東名高速を117クーペの窓を開けて駆けるその時の感覚が時折フラッシュバックする。


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CB72 [追憶]

1970年、高校2年生の僕は無免許でお巡りさんに捕まった。田舎でおおらかな時代だったのか僕が家の周りで父親の原付バイクを無免許で乗り回していても咎められることはなかった。一方で稚拙な運転で転倒して体を擦り剝くこともあったがこっそり乗り出したバイクだから親には痛いとは言えなかった。
ある日、僕は畑仕事をする親父のところにバイクで出かけた。特に用事があったわけではないがバイクに乗りたかったのだ。そうして僕は親父が作業をする平塚の畑の前の農道でバイクで遊んでいた。すると向こうのT字路を右側からお巡りさんがバイクで行き過ぎるのが見えた。僕は内心でヤバイと感じたがバイクを反転して何喰わぬ顔で今来た道を戻った。すると一旦は見えなくなったお巡りさんが戻ってきて行き過ぎたT字路を右折して僕の方に向かってきた。僕は内心ドキドキしながらも平然とバイクに乗ってお巡りさんと行き交わすつもりだったが、そんなことが出来ようはずがなかった。かくして僕は父親の目前で無免許運転で捕まったのだ。父親はこの出来事の一部始終を見ていたはずなのだが知らぬ顔をして作業を続けていた。親父としては我が子が無免許で自分のバイクを乗るのを黙認してたなどお巡りさんに言えるはずもない。 そんな風だから家に帰ってからも親からは何も言われることはなかった。母親も何も言わなかった。あるいは丁度良い勉強の機会だとでも考えたのかもしれない。

暫くして家庭裁判所から呼び出しの通知が来た。出頭は平日の午後、場所は家庭裁判所、未成年なので親も同伴せよということだった。僕は父親に同行をお願いした。家庭裁判所は高校のすぐ裏手で歩いて5分ほどの所にあって、出頭は午後からだから学校を休むほどのことではない。何かしらの理由を付けて午後に抜けだせばよい。このことで学校からは何も言われたことはなかったのでたぶん学校への通報はなかったのだろうと思っているが定かではない。
そうして出頭の当日、僕は所用で午後の授業に出られない旨を担任に伝えて学校を抜け出した。父親とは学校の正門前で待ち合わせをした。家庭裁判所では、おそらく僕と同じ罪状のために出頭してきたと思われる親子が50組ほど集まっていた。そうして奥の方には同級生の姿も混じっていて、遠くの方から”お前もか”と目を合わニヤッとした。僕らは集団で説明を受けた後に親子一組づつ別室の家裁判事の前で何やらの審判を受けるのだが、神妙ににして穏やかな話を聞いた後に不処分の結果だったと思うがはっきりと覚えてはいない。父親はこのことで僕を叱ることはなく何か言うこともなかった。僕は親が暗黙の裡に示したそれに大事なことを教えられた気がした。

父親は機械が好きで農用の機械やエンジンは自分で整備して時にはリストアもした。シバウラやロビンのエンジンはお手の物だった。そのDNAは僕にも受け継がれているようで中学生になると親父と一緒にエンジンをいじるようになった。そうして僕が無免許運転捕まった後には誰も免許を持っていないのに中古の自動二輪車(CB72)が物置に持ち込まれてたりした。それは父の同僚でバイク好きSさんから譲ってもらったらしかった。それは僕がいじることのために手に入れた風でもあった。

CB72(シービーナナニイ)typeⅡ。アップハンドルはすぐさま一文字ハンドルに替えた。ステップもやや後ろにずらした。それに合わせて前後のブレーキワイヤーとクラッチワイヤーの長さは自分で切りつめて調整した。タペット調整やらコンタクトポイントの点火時期調整も自分でやった。後は僕の免許を待つのみだった。そうして高校3年の夏に僕は自動二輪車の免許を取得してこのバイクで通学するようになった。

中古のCB72ではあったが楽しかった。何よりも行ける範囲が広がったのがうれしかった。野に山に初めて走るところは少しばかり冒険心を煽ることもあったし、遠く一人で出かけた先の夕暮れには一抹の不安と孤独感におそわれることもあった。その後もCB72で色々なことを学び経験した。自分は決して無謀なことをしたと思ってはいないが速度違反で一発免停もあった。それからエンジンを調整するなどして最高速チャレンジをしたこともあった。夜にバイクをいじり夜な夜なテスト走行に出かけ最速記録はCB72のメータ読みで155km/hだった。夜になってバイクで出かける僕に両親は何も小言をいうことはなかったが僕が結婚してしばらくして母親が漏らした一言は「あの頃、夜遅くにお前がオートバイで出かける音を聞くと帰ってくる迄はなかなか寝付けなかったよ」と・・・伏して感謝。

バイクをいじり乗ることと遠くへ行くことは冒険への希求の一部だったし彷徨でもあった。それは明確な将来を見据えることができずにいた自分にとっで大学へ進学することよりも大切なことだった。暫くすると物置にはCB72 typeⅡのほかにtype Ⅰの車体やCP77のエンジンなども並んだが、高校を卒業してとりあえず予備校に籍をおいて浪人生活を始めるとCB72に乗る機会も少なくなって車体も部品も手放してしまった。そうしてあてどない浪人生活に見切りをつけて大学に進学すると暫くはDax50を通学の足としていたが程なく4輪車の免許を取得したのでそれからしばらくの間はバイクから遠ざかった。
ホンダ ドリーム CB72 スーパースポーツ、記憶の中では数年は乗っていたような気分だが濃密なかかわりはおよそ1年ほどだったかもしれない。


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哲学の道 [追憶]

「哲学の道」、田圃の中の曲がりくねった小径を高校の同級生Kはそう呼んだ。それは僕が電車に乗り遅れて自転車で学校まで行った日のこと。そのころ僕は電車で通学していたが、時折の電車に乗り遅れることもあって、そんな時はそのまま自転車で学校に向かった。駅からは学校までは約9km、駅との標高差は30m、3.3‰の下り勾配になるので案外軽いペダリングで遅刻することなく到着した。帰り道は平坦に見えても3.3‰の登り勾配がだらだら続くので思いのほか時間がかかった。
その日、僕らは午後の課業を終えてとりとめのない話をしていた。多感で変貌する年頃だから一つ先に足を踏み入れたものそうでない者が混ざり新しい気付きも多い。加えてKを含め男子校の生徒たちは何かしら思慮深さを感じさせ芯の通った個性的な輩が多かった気がする。彼らに比べて僕は奥手で軟派(ナンパではない)だったから彼らと交わす言葉の中に刺激を受けることが多かった。
その時、僕はKとどんな話をしたのかおぼえていないが僕は遠くを見つめるような眼差しで話す彼に興味をもった。それで僕はもう少し話をしたい気分だったのでKの帰り道を自転車を押して一緒に歩いた。Kの家は豊田本か池辺あたりだったと思う。およそ4kmほどの道のりだから歩いて小一時間ほどになる。
郭町から幸町へ向かい、鍵の手や丁字路の多い路地を抜け、六軒町を過ぎて上野田あたりまで来ると遠く秩父と奥武蔵の山並みを背景に目前には稲刈りを終えた田圃風景が広がった。
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豊田本の田圃の中の草が生えた小径は曲がりくねって遥か先まで続いていた。Kはそこに慣れた足取りで踏み入れ、毎日ここを歩いて通っているのだという。そうして遠くを見る目で「僕はここを哲学の道と呼んでいる」と言った。田圃の中の見慣れた風景であるが曲がりくねった小径をばらく歩くと稲刈りを終えた広い田圃のなかに人家は遠退いた。僕はとりとめのない身の上話をしながらKが「哲学の道」と呼ぶ訳を考えていた。それはKが自分に向けて茶化す風にも、自分を鼓舞する風にも聞こえたが、Kは毎日色々なことを考えながらこの道を歩き、そうして考えている自分を俯瞰してこの道を「哲学の道」と呼んだに違いなかった。僕はそんなKを少し誇らしく感じ、Kが同級生でいることが嬉しかった。Kは時折目線を遠くに移すほかは彼には改めて見るべきものもない風に歩いた。僕は自転車を押しながらKと並んで歩いた。



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Etude Op.25 No.7 [追憶]

左手の旋律に語らうように応える右手

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レストラン リード [追憶]

1978年 就職をして仕事に拘束されるようになると学生時代のように意の向くままに思いのままに時を使うことなどできなくなった。それでも僕(あるいは僕ら)はまるでそのことに抗うかのように色々なことをした。それは意識してそうしたわけではなく内から湧き上がる何かが僕らを駆り立てていた。テニスやバドミントン、茶道やダンス、旅行など、濃密な時間を求めて時を忘れて過ごした。
僕らはバドミントンの教室で出遭った。彼女は19歳、澄んだ頬に恐れのないまなざし、白いウエアに身を包み臆することなくふるまっていた。若さゆえのいわれのないものだったかもしれない。その日、僕は彼女に魅かれて声を掛けた。

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それは初めての恋では無かったので戸惑うことはなかった。僕らは少しづつ確かめるように時を重ね、今と行く末の間を思いながら、いつしか親しくなっていった。新しい恋愛の始まりだった。

そのころ僕らはよく川越のレストラン リード に通った。お店は大仙波で国道16号から左(東松山方面)にそれた左側にあった。黒く四角い鉄骨の枠組みに全面ガラス張りのようなお店だった。
道に沿った店の前の駐車場に車を止めて、向かって左手から折り返し階段を二階に上がったところがメインフロアーでフロアーは窓際に向かって階段状に下がっていたと思う。奥の席からも大きな窓から国道16号越しに南古谷の田園風景が見えた。階段の踊り場は少し広くなっていて時折生演奏もあったと記憶している。
オーナーは素敵な奥さんで、何か自分の趣味のようにレストランを開いているということらしかった。僕らはお金がない若い恋人どうしだったので贅沢な食事はできなかったが少し遅い昼食の一皿のためによくここにきた。そうして時折ディッシュアップに立つオーナーの心温まるまなざしに包まれて幸せな心地で過ごした。彼女は僕たちの様子を見てその時に相応しい席に案内してくれたように記憶している。特に中段の中ほどの席に案内されると何かスポットライトを当てられているようで気恥ずかしく感じることもあった。
夏のある日、彼女はビシソワーズを注文したことがある。それはメニューには無かったがホールスタッフはマネジャーにそれを告げ、僕らは冷たいスープを頂くことができた。
そして翌週にお店を訪れると今度はスープメニューにビシソワーズが加えられていて、僕らはにっこりと顔を見合わせた。
僕たちが結婚してからは乳飲み子を連れてゆくこともあったが折々にオーナーの心遣いホスピタリティーに身をゆだねた。
そしてその何年か後には店を閉めるという知らせが来て僕らは名残惜しい気持ちになった。

近しくなって僕は自分の背中を押すように彼女を旅行に誘った。僕にとってそれは将来への誘いであったが、彼女はどう思ったか分からない。
静かな6月の晴山館の朝、二階の窓からは朝露に濡れた芝の緑が鮮やかに靄の中を遠くまで続いていた。その時の僕は未だ彼女の前に自分をさらけ出し、自分を投げ出して支える覚悟にまでは至ってなかった・・・。

高邁な若さはお仕着せのべき論で自らを律することを拒み、僕たちは他人と違うことを恐れず自らが望むように歩くことを誇りに思いたかった。だが、そうしたつもりでも恋の道は古典的だった気もする。

二人で旅行をするようになって僕らの間を遮るものは何もない、そんな気分だった。仕事を終えれば多くの時間を一緒に過ごした。そのころ彼女の職場は僕の職場のその先にあったので僕らは僕が運転する車で一緒に通勤をすることもあった。僕は行く末に結婚することを意識し始めたので、慕わしさや愛おしさだけでなく、互いに素で居られることや、苦も笑い飛ばすことができることも望んだ。
ある時、彼女は「智恵子抄」の話をした。それは彼女がその本の”智恵子”のように愛されたいということであったと思うが、僕は本の名前は知っていたが読んだことはなかったのでうまく答えることができなかった。後に「智恵子抄」を読んで彼女の気持ちを察してみたが未だ試してはいない。
また僕らは過去の話もした。それらは告白や懺悔ということではなかったが、時に痛みを伴い涙し憤慨し嫉妬することもあった。それはいずれ二人が将来の契りをかわすために通るべき道だったのかもしれない。傷つくことを恐れず厭うことなく愛することそれは僕の決意だった。僕らが交わりを深めるなかでは過ちもあったが僕はそれを枷鎖とした。そうして2年を経ると最早僕らには結婚しない理由は無かった。
彼女は慕わしく愛おしく信頼し守るべき人になっていた。また彼女は刺激的で世の倣いの中に僕を眠らせてはくれそうになかった。僕はそんな彼女を選び守るべき決意をした。(自分の力に自信を持っていたわけではなかったが・・・)
1980年、僕らは妻の誕生日に婚姻届けを出し、僕の誕生日に結婚式をあげた。

レストラン リード の記憶とともに・・・



追記:今日は彼女の誕生日

 

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春の日の花と輝く [追憶]

春の日の花と輝く うるわしき姿の
いつしかにあせてうつろう 世の冬は来るとも
わが心は変わる日なく おん身をば慕いて
愛はなお緑いろ濃く わが胸に生くべし1979s.jpg
若き日の頬は清らに わずらいの影なく
おん身今あでにうるわし されど面あせても
わが心は変わる日なく おん身をば慕いて
ひまわりの陽をば恋うごと とこしえに思わん

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信州同行会 [追憶]

大学生のころ友人Fの発案で僕らは”信州同行会”なる会を作っていた。そうして気ままな仲間とともに旅にでかけた。

上高地で友人のFと撮影した古い旅行の写真が残っていて、多分これが最初の旅行じゃないかと思う。Fの日産ローレルで中央道を大月辺りまで走りその後は一般道を上高地まで走ったのだと思う。二人とも金欠だったが若さと軽いノリで楽しかった。あれは1974年の頃だと思う。

そのうちFは気ままな仲間とともに信州に出かけたら楽しいんじゃないか”信州同行会”のような会をつくってと提案してきた。同好会ではなくて”同行会”というのが妙だった。僕は大いに賛同してFは”信州同行会”と称して旅行を計画して”同行の志”を誘った。それが“信州同行会”の始まりだった。
メンバーは地元の公民館で知り合った仲間やその友人たちで、折々に気の合った数人で概ね計画がまとまればささやかなパンフレットも作った。旅行はFの乗用車1台で出かけることが多かったのでたので参加者は概ね男女2名づつ4名だった。皆は暗黙のうちに恋愛関係を持ち込まぬようにあるいは恋愛感情を表に出さないようにしていたのだと思うが異性の香りのする緊張の中に奔放さと気遣いを交えて旅を楽しんだ。
当時はナビや携帯電話など無かった。事前に準備をしていても旅に出てしまえば連絡手段は公衆電話や黒電話しかなかったし目的地へはガイドブックやドライブマップが頼りだった。今時から見れば不便なことには違いないが、行ってみなければ分からない不確定さと何かあっても気ままに連絡できない不自由さはささやかな冒険に立ち向かう気分と自立的あるいは自律的な気構えをもって旅に出た。
そうして遠い旅先の向こうには何かしら希望と憧れがあった。見知らぬ地に身を置けばそこは新鮮な刺激に満ち人と時と自分を見つめ直す機会になり驚きと新たな気づきが多かった。僕らはそれぞれが夢や期待、恐れや不安を抱きなが見知らぬ地に自分を映して人と自分とその先にある何かを探し求めていた。1974年から1978年にかけてのこと・・・
軽井沢、浅間、嬬恋、草津白根、志賀高原、長野善光寺、戸隠、鬼無里、大町、木崎三湖、安曇野、松本、美ヶ原、霧ヶ峰、蓼科、八ヶ岳、清里、高遠、駒ケ岳、乗鞍、上高地・・・いろいろなところを回った。”信州同行会”と言いつつも僕らは、金沢、尾小屋、岐阜、郡上八幡、姫路、岡山、倉敷、そうして小豆島まで足をのばすこともあった。

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春、志賀高原を経て水芭蕉が咲く鬼無里を抜けて白馬まで周遊したことがあった。鬼無里から白馬に抜ける峠で見た夕焼けの鹿島槍の姿を今でも忘れられない。


1978年、大学を卒業して仕事をするようになると僕らの仲間は信州同行会を名乗ることなくの気の合ったもののグループでよく信州に出かけるようになっていた。
1979年の夏休みには僕と妻(当時は結婚していなかった)は松本に逗留して日がな毎日を松本周辺で過ごした。ホテルで朝食をとりながらその日の行く先を決めて乗鞍、上高地、安曇野、白馬、麻績、霧ヶ峰、美ヶ原など涼しいところでのんびりした。そんなある日僕らが松本に逗留していることを知っていた友人の一人が僕らの泊まっているホテルの部屋をとってくれと電話してきた。訳を尋ねると乗鞍の雪渓を滑るのだという。翌日その友人はいわゆる愛称”クジラ”のルーフにスキー板を載せて真夏の松本にやってきた。また別の日には他のグループと旅先で落ち合うなどもして遊んだ。
松本に逗留してある日僕は彼女を善光寺に誘った。篠ノ井線で行けば聖高原を抜けて姨捨の駅ではスイッチバックとホームからは善光寺平を一望できる。僕は善光寺よりもそれを彼女にみせたかった。僕は篠ノ井線の時刻を確認して一人彼女を明科の駅で長野行きの列車に乗せた。彼女は篠ノ井線の列車で僕は車でそれぞれ長野駅に向かい待ち合わせをする約束にしたのだ。
長野へは国道403号を明科から聖高原のワインディングロードを抜けてゆく。少し飛ばしても列車には間に合わない。僕は列車よりも20分ほど遅れて長野駅に到着し、先に着いているはずの彼女を駅前に探したがどこにも居なかった。いったいどうしたのかと心配をしても連絡するすべはない。当てなく捜し歩いてもどうにもならないので、じっと彼女が来るのを待つほかはなかった。そうして長野駅前で待つこと2時間。遅れてきた彼女は満面の笑顔で、姥捨駅でホームに出たら風が気持ちが良かったのでしばらくベンチに佇んで列車を1本やり過ごしてから長野に来たのだと・・・。それは僕が見せたかったものを堪能したということなのだが・・・。

その翌年に僕らは結婚した。そのころ妻は身籠っていたので僕らは新婚旅行と称して結婚休暇を松本に逗留して冬の安曇野でのんびり過ごした。そんな僕らは“いまさら、また信州に出かけるのか”と冷やかされた。
旅に出て見知らぬ地に立てば自分が帰るべきところが際立ってくる。夢に誘われ、憧れに担われて、かけがえのない瞬間だった。


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FIAT X1/9 [追憶]

妻が赤いピアッツァXEに乗り換えるのと前後して僕はFIAT X1/9を手に入れた。大学時代のアルバイト仲間のKがクリーム色のX1/9を手に入れたのを羨ましく思って以来そのデザインがずっと気になっていたのだ。
デザイナーはマルチェロ・ガンディーニ。このデザインは今でも素敵だと思う。
低いノーズのリトラクタブルヘッドランプからつながるウェッジシェイプのボディラインはリヤバルクヘッドできっちりと切られてシャープな雰囲気を醸した。Bピラー後方には四角いエンジンフードが持ち上がりライトウエイトの横置きのミッドシップらしい凝縮感を感じさせた。

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紺色で1.5L 5Speedの 右ハンドル仕様。 いわゆる5マイルバンパーが付いたタイプ。リヤのピラーには確かベルトーネのbマークが付いていた。東宝モーターズが輸入したものだと思う。
ミッドシップ2シーター、タルガトップのデタッチャブルルーフは樹脂製でBピラーのルーフにアンカーを嵌めてフロントスクリーンの左右の隅にクランプで前方に引っ張るように固定した。取り外したルーフはフロントのラゲッジを覆うように縦向きにすっぽり収まったが、こうすると荷物の取り出しは出来なくなる。ラゲッジスペースはエンジンの後方にもあったので小さいものならここに入れた方が便利だった。
ボディの剛性は現代のモデルほど高くはなかった感じがする。オープンエアーでドライブ中にウインドスクリーンに触れてみるとマツダロードスターの初期モデル程度のねじれを感じた。非力だが軽量で思いのほか踏ん張る足回りなので楽しい車だった。整備はヘインズのマニュアルを片手に自分でしたが後年はキャブレターの不調に悩まされたので、妻が3台目のピアッツァに乗り換えると同時にX1/9を売却し、その後しばらくの間はお手軽な車を乗り継いだ。
X1/9、それはいつの日かまた同じような様な車に乗りたいと思わせるほどに印象深い一台だった。およそ20年後(2004年)に再び手にした2シーターにタルガトップ(スマート ロードスター)を選んだのはこの時のX1/9の印象が残っていたからなのは言うまでもない。
マルチェロ・ガンディーニといえばランボルギーニ カウンタックを傑作とするが、ランボルギーニ ミウラは白眉、一方でランチア ストラトスは孤高、対してX1/9は・・・。


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いすゞ ピアッツア [追憶]

1981年 いすゞから117クーペの後継機種のが発売されると、程なくして僕は白いピアッツァXLに乗り換えた。

ジョルジェット・ジウジアーロのショーモデル ”アッソ・ディ・フィオーリ”をいすゞが量産化するのは聞こえていたので、発売されるとすぐにカタログを取り寄せた。繰り返し見ていたのでかなり傷んでしまったその時のカタログが古い本棚に残っている。カタログではXEのそれは魅力的だったがデジタル表示のメータにはなじめそうもなかったので何かしら臆するものがあった。そうして悩んだ末に白いXLを選んだ。最初のモデルは未だフェンダーミラーだった。近未来的なフォルムに前衛的な操作系(クラスタースイッチ)のデザインが魅力的だった。物置に入れたXLの鼻先が写ったスライドが残っている。

そのころ僕は姉が乗らなくなったあの「アルト47万円」を通勤の足としていたが、僕の職場は妻の通勤経路にあったので時折は妻の運転するピアッツァの助手席で通勤をすることもあった。
僕が務めていたのは機械加工を生業とする会社だった。僕はオイルショックで疲弊したなかでの何かしら投げやりな気分で自宅からそう遠くない会社に就職していたが新しい環境は思いのほか新鮮だった。会社は大卒の新入社員を初めて採用したのだった。僕ら同期の6名は国内4拠点の工場で研修を受けたり、陸上自衛隊への体験入隊も経験した。僕はそこで品質管理の係りについたが会社は小さな組織だったので製造現場に就いたり生産技術的なことなどもするようになった。ところが就職して3年ほどたち会社の業様が分かってくると仕事の先に夢が持てなくなってきていた。そうして、ある品質不具合の対応方法をめぐって僕は上司と口論になり、上司の言葉に理不尽なものを感じた僕は、それを理由に転職を決意した。しかしそれは僕が退職を決意するための口実にしただけで実のところは品質不具合の言い知れない恐怖から逃れたかったのだともいえる。今振り返れば上司の言葉も理解できるのだが・・・。それはさておき当時、僕と同じように望むような職を得られなかった同級生や同僚のなかには新しい道を探して同じ頃に転職をした者は少なくなかった。
転職は数カ月かけて準備した。物造り現場で誰かの描いた図面で物を造るのが今までの職場であったが、やはり自分で描いた図面で物を造る仕事の方をするべきだと思い設計や開発の仕事を探して面接をうけた。そうして第一希望の採用内定を得てから退職届を提出した。
そのころ妻は二人目を身籠っていたので”こんな時期に転職をしなくても”とこぼしたが、同時に”転職によって生活レベルを落とさないこと”と僕に背中につっかえ棒を当てた。果たして振り返ってみてどうだったろうか背中のつっかえ棒が有効だったせいか僕は思いのほか上出来だったとと思うのだが・・・。
こうして翌年の年明けから僕は新しい職場に通うことになったので通勤に白いピアッツァの助手席に乗ることはなくなり白いピアッツァは妻の専用になった。

ジョルジェット・ジウジアーロのエレガントな117クーペで女性をエスコートするのは何か誇らしく嬉しかった。一方でピアッツァをドライブする小柄な妻はとてもキュートだった。

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妻は白のピアッツァXLに次いで赤のピアッツァXEを、3台目は2.0Lターボのハンドリングバイロータス(グリーン)のピアッツァと乗り継いだ。ピアッツァは妻のお気に入りだったのだと思っているがその実は僕が妻に乗ってほしかったのだ。
僕はデザインの力を感じた。




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