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ヒヤシンスハウス [追憶]

11月3日 別所沼公園にあるヒヤシンスハウスを訪ねてみた。

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ひとつの詩を糸口に色々な思い出がよみがえり古い本を引っ張り出しながら読んだりしてうちに立原道造が構想していたこの”週末住宅”を見ておきたくなったのだ。元の計画では別所沼の東岸に建てる計画だったようだ。好きなことだけのための遊び部屋のようでもあり、こんなところで過ごせる時間が羨ましく思われた。

私が初めて彼の詩を見たのは高校の時だった。
その詩集には立原道造と並んでライナー・マリア・リルケやハインリヒ・ハイネの恋愛詩なども入っていたが、自分の青い時代との決別と共に、どこかに仕舞い込んだか、あるいは捨ててしまったかもしれない。
改めて手元に残した立原道造を読み返してみると
「詩とは僕にとって、すべての「なぜ?」と「どこから?」との問ひに、僕らの「いかに?」と「どこへ?」とのと問ひを問ふ場所であるゆゑ。」(別離)
とある。
男子16、17才の頃といえば子供がようやく人に変貌する頃でもあるから、人に、自然に、そして異性にも、心の内には新たに出逢うものと悩みが溢れる。
私は立原道造の「なぜ?」「どこから?」「いかに?」「どこへ?」に惹かれたのかもしれない。

高校時代には立原道造にまつわるもう一つの思い出がある。
私の通った高校は男子校であった。校風は自主自律な感じであって、生徒は伝統には従うものの、およそ理不尽な規則などに縛られることは無かった気がする。それでも、当時の全共闘運動の影響をうけてた生徒の活動(闘争)に端を発して新たな「生徒憲章」なるものが制定されたが、自主自律の前にあえて自由を追加したようなものだったともう。教師も我が校の生徒ならば思慮あるべきとして対処していた風でもある。
一方 で男子校ということもあり異性については畏怖と尊敬と憧れの目で見ていて、恋あるいは片恋の相手は同じ市にある女子校の某かを慕う者が少なくなかった。幸い(あるいは不幸にも)私の姉はその女子校の生徒だったので女子校の内情らしき事も話に聞くことがあって、その女子校生は恋の相手にはなりにくかった。
その頃、同級生の一人に小川町から通うTがいて、彼はその女子校の一人を慕っていた。
その子は小柄で目が合えば笑顔が返ってくる可愛い女子で、女子校の音楽部ではソプラノを担当していた。私も、音楽会か何かの折に言葉を交わすことがあったが、良家で大事に育てられたという感じがする生徒であった。3年生になってからは演奏会の時にソロを歌うこともあったように思う。
私たちが2年生の頃になるとTは今まで胸の内に秘めていたその子の名前を自分の口からあからさまに出してその子の話するようになった。その子はKに住んでいて云々、話の中身はと言えば、彼女への憧れが主であり、そうして素敵な彼女を少しばかり理想化し、その子に惚れてしまっている自分を露わにして夢見るように話す。そんな風であった。
この頃の大方の男子がそうであるように、片恋を経て付き合いを始めるようになると、その相手の名前を挙げてその子の話をするようなことが無くなるのが常であるから、きっとTは未だに告白はしていないのだった。Tにとっては彼女を想うそのことだけでも幸せだったのかもしれない。
Tはその頃に詩作もしていて、その一編をもらったことがあった。もう、印象でしか思い出せないが、北風の中を彷徨い続ける旅人になぞらえて、何かを求めて、あるいは、旅人をして彷徨せるのものは何か、と言う風な詩であったとおもう。それは、片恋の女の子を語る幸せそうな面持ちとは対照的な印象であった。
そのTがよく持ち歩いていたのが立原道造の詩集であった。
当時のTの風貌は立原道造に似ていなくもなかった。

時を経て立原道造の詩集の幾つかを今時のスマートデバイスに入れては時おり読み返してみるが、たとえ黄ばんだページでも活字のほうがふさわしい気がする。

 


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