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たばこを吸わなくなった話 [追憶]

2015年9月2日から煙草を吸わなくなった。禁煙をしたというわけではない。その日、いつもの煙草が美味しいものではないという感じがして無理に吸わなくてもいいかなと思ったのだ。そうして吸いかけのタバコのパックを手にしたもののそのまま机の上に戻した。

自分は煙草をこよなく愛していた。だから煙草の有害性を説かれればなるほどと納得するが、煙草を止めよと言われると大きなお世話だと内心で反発する。嗜好品は脳内麻薬と結びついた人の性である。人は多かれ少なかれ自分の命と交換しながら嗜好品を楽しんでいる。
誰かが煙草をやり玉に挙げて、どこかの財がそれを助長して、分らない者が大きなお世話を声高に叫ぶので、人はそれで良しとみなしているようだが、実態は煙草が人生に必須のものではないから誰かがやり玉に挙げてそれに追随したものがさも正義であるかのように叫んでいられるるのだ。
とはいえ副流煙が毒だとか匂いがきらいだと言われれば自制もするし火気厳禁とあれば火を付けることもないが、概ね煙草は灰や葉を散らして吸い殻などの跡形を残さないようにすれば自由に吸ってよいというのが自分のルールだった。(この跡形を残さないようにというのはその昔自衛隊の体験入隊で教えられた方法でその合理性に納得している。今でもそうか分からないが・・・)だから特に禁煙とされていなければ灰皿が無い場所でも吸ったし、ズボンの右ポケットには吸い殻が入っていた。

自分に残る古い煙草の記憶は父に背負われながら庭先で父の吸う煙草の青い煙がいい匂いだなって思ったこと。その父は病気で倒れるまで煙草を止めることはなかった。あるとき煙草を吸わなくなった父の前で煙草を燻らすと父は嫌そうな顔をしたのでそれ以来父の前で煙草をくわえることはなかった。(その時は病に倒れればきっと自分も煙草を吸わなくなるだろうと思った。)
昔は父の使いで煙草を買いに行かされたので両切りの“ピース”、“いこい”、“しんせい”、“ゴールデンバット”などの銘柄のほかに紙巻口付の“朝日”などもあったと記憶している。なかでも父は“いこい”を好んで吸っていた。
義務教育を終えると自分は時折父の“いこい”をくすねたりもしたが高校を卒業してから自分で煙草を買うようになった。初めて買ったのはチャコールフィルター付きの煙草“セブンスター”で両切り煙草よりも吸いやすく軽い感じがした。

煙草吸いは風邪をひいても煙草を止めない。風邪のひきはじめはいつもの煙草を吸っていてもひどくなってせき込むようになるにつれて軽い煙草に替えても煙草くわえるのだ。そのうち火を付けていない煙草をくわえただけでせき込むようになると一時煙草を我慢する。全く、ばかげている。そうして一週間ばかりたって調子が良くなるといつもの煙草にもどすのだが、最初の一服には思わずクラッとすることがある。全く、ばかげてる。

一日に吸う煙草の本数は会社での役職が上がるとともに増えていった気もする。昔は喫煙者が自分の机に灰皿をおいて休み時間に煙草を吸うのが当たり前だった。やがてそれも制限されて非喫煙者に配慮した喫煙コーナーが設けられ、次には分煙を目指して喫煙ルームが造られたりもした。ただ緩やかな分煙の時代だったので上司が喫煙者なのを良いことに煙草が吸えて珈琲が淹れられる会議室を設えて、そこで煙草を吸いながら仕事するなどしたこともあった。一時ストレスから逃れるための喫煙であったのだと思う。やがて屋内は全面禁煙になり、一時のストレス解放は屋外の一角に設えた喫煙コーナーに限られることになったが何かしら理由を付けては喫煙コーナーに足を向けた。
とにかく、何かにつけて煙草を吸い、およそ43年間、1日20~30本を吸っていたのだ。

そうして無理に吸わなくてもいいかなと思って机の上に置いておいた吸いかけの煙草のパックは一週間ほどたってからゴミ箱に捨てた。
長年の習慣で反射的に右胸のポケットに手がゆくことがあったが煙草は持たないので吸うことはなかった。
禁煙でもなければ、休煙でもない、嗜好品として欲しくないので吸わないのだ。
煙草を吸わなくなって、煙草に縛られない自由を実感している。
(加えて、RAの減薬がうまくいっているのは、もしかしたら煙草を吸わなくなったせいかもしれない・・・)


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