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心的外傷 [追憶]

4月11日 今日は同窓会。僕はあまり気乗りがしなかったのだが意を決して出席した。
40数年ぶりとなる幼なじみとの再会は、思い出せない顔、思い出せない名前、思いのほか老いたものなど、自分のことははさておいても、まるで浦島太郎が玉手箱を開けたようなものだった。
一般には幼なじみとの再会は楽しみとなるべきものだが、僕には今日が近づくにつれて何かしら嫌なものと出逢うような緊張があった。つまり幼稚園や小、中学校での生活はある種の心的外傷を僕に与えていて否定的な影響をもっているようなのだ。
もちろん幼稚園や小、中学校での生活には楽しい思い出も苦い思い出も甘く切なく思い出もある。中には残酷な思い出も、背徳あるいは罪悪感を伴う記憶もある。それらは良くある話に含まれるものに違いない。ただ、その中で意識の底深く流れているものにある種の怖れの感覚があるのだ。
言葉で表すのは難しいが、同級生の“群れ”のなかに居ても、時折は群れのメンバーと僕は何か違うというある種の違和感、懐疑を感じることがあった。それは、子供心に自分と他人の明確な区別であり、他人の集団のなかでどこに自分をおくのかという問題でもあった。
猿山の猿が群れの中での序列を感じながらそれを疑うようなものだから、ふとした折に“群れ”への怖れを感じたり、予期しないメンバーの反応に戸惑ったりすることもあった。
それらは、先天的に備えている性格という面もあれば、後天的に学習した面もあるとおもうのだが、同級生たちのそれぞれが持っている価値観や感性に不用意に反応してはいけないとも感じるようなものでもあった。
ましてや彼らが子供社会の正義感や当たり前論を背景に僕に向かってくると、僕にとって彼らは理解を越えた怪物に見えた。(あるいは、それは彼らが彼らの家庭や地域の環境の中で自然に身に着けた常識なのかもしれないのだが・・・)
それなので僕は、あえて僕が他人とは違うのだということを意識することでその否定的な影響と対峙しながら群れに紛れていた。
つまり、このことが心的外傷として残っているのだと改めて認識した。
幼なじみは齢を重ね各々が夫々の顔を作っている。
甘い記憶のある顔も、苦い記憶のある顔も、皆は何かしら今までの時を肯定して納得して幸せな顔をして近況報告をしている。はたして自分も同類ではあるが・・・。
少し酔いがまわったころになって昔の群れのリーダー格は当時の僕をして“こいつは少し澄ましたところがあって・・・”などと評したが、その実は僕が受けた心的外傷がなせる業だったのだ。

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