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狩猟にまつわるよもやま話 [追憶]

昔、母から聞いたの話
父は、若いころ幾度となく"鉄砲撃ち“をやりたいと母に持ちかけたらしい。
鉄砲撃ちといっても職業として猟師になるというのではなく、趣味としての狩猟をやりたかったらしい。
僕が子供の頃は隣の家の大工さんは空気銃を持って近くで雀などを撃っていたし、散弾銃を持って野鳥を撃つ人もいたし、猟犬を連れて遠出をして鹿などを撃つものもいた。
幼い頃の僕はそれを昔から続いている生活の様に感じていた。とはいえそれが生活のために必須ではないことも分かっていた。それで僕は鉄砲を持って猟をするのは昔の生活の名残り或いは回顧的な気分がそうさせるのであって、ある種の男の嗜みの一つなのだとも理解していた。母も男の“嗜み"としてのその辺りの気分は理解していたらしい。
とはいえ母は、「隣のおじさんが銃を持って出歩くと雀が何処かに逃げてしまって居なくなる。雀だって分かるのだ」と父を窘め、そうして母は「無用な殺生はするものではない」と父の要求を撥ねつけたのだと言った。
僕には、父の心持もわかる気がするのだが・・・

昔、父に聞いた雉撃ちの話にまつわる思い出
父は僕に雉撃ちの話などすることもあった。アウトドアの世界で“雉撃ち”といえばそれはは屋外での排便行為であるが、猟としての雉撃ちは、鉄砲を持って茂みに潜み、雉笛を鳴らして雉をおびき寄せ、近づいてきた雉を撃つ(定かではない)のだという話を聞かされた。幼心に雉笛の音や、茂みに潜む姿を想像し、なるほどと思う一方で、何か狡賢く、せせこましい感じを受けた。同時にその猟場は、たぶん“平野”あたりであろうと幼いながら想像した。大川の河畔林も猟場であるには違いなかったが、なぜか“平野”が思い浮かんだ。
そこは今では住宅公団の団地になっているが、僕が幼いころは。ゆるくうねるような丘陵地に雑木林と畑地が交互に数キロにわたって広がっていて、子供の頃には畑仕事や雑木林の下刈りをする父に連れて行かれた場所でもあった。人工物は未舗装の道と畑だけで、道沿いに人家は無く、外灯もなければ電柱さえも無かった。時期になればユリが群れ花開く林もあれば渇水の夏でも水の枯れない小さな沼もあったが、“平野”は広大な雑木林で子供心にも父親の所在を意識しながら遊ばないと迷子になりそうな気分になる場所であった。
幼かった僕は父からはその沼に一人では近づいてはいけないと厳しくいわれていた記憶がある。そうして幼かった僕はその沼を底無し沼だと勝手に思い込んでいた。本当はどうであったのか分からないが、住宅公団が団地を開発し集合住宅がその沼があった辺りに建設されると分かった時には、そこには建てるべきでないというようなことを父が話したことも覚えている。果たして、団地が竣工して数年たつとコンクリートの建物の壁には大きなひび割れができた。父が話した通りになったのか・・・

狩猟が解禁する頃の思い出
僕が子供の頃は、近くを流れる大川の河川敷、河畔林では冬場になると実際に銃猟が行われていた。
大川の川沿いには河原につながる葦原や雑木林があって当時は禁猟区ではなかった。だから確か11月1日の狩猟解禁の朝になると大川の方から鉄砲の音が響いた。獲物は鴨や雉だったのだろうか。この狩猟解禁の時期には子供心にも大川の河原で遊ぶのは危ないと分かっていたので遊びに行くことはなかった。仲間内からはこの時期に河原で遊んでいたら散弾銃の弾がパラパラと降ってきた話も聞いていた。
とはいえ猟区は広くないので獲物がいつまでもそこにいるわけもなく数日もすると鉄砲の音はしなくなった。
この大川は春夏秋冬を通じて子供たちの格好の遊び場だった。大川の河原で遊ぶには小学生でもナイフ(肥後の守)と燐寸(マッチ)は必須であって、ナイフ一本で木の枝や篠から遊び道具も作り、燐寸をもって河原で焚火をしたリした。勿論、悪戯に土手に火を放つ“野火”は暗黙のうちご法度と知っていた。それでも時には河原の冬枯れ薄の株を燃やしたりしたが思いのほか炎が大きくなりって怖気づくこともあった。ちょっと危ない匂いがする遊びを遊び仲間の前で小心を隠すようやって、少し大人ぶったようにみせる。大川はそんな風にして自分と仲間と自然との間合いを知る格好の遊び場だったきがする。

狩猟はどうやら男の奥にある本能の一部分なのかもしれない。それでフライフィッシングによるヤマメ釣りは狩猟なのだと思うことがある。
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