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Flashback [追憶]

1976年 機械工学科の3年生には製図の講義は必修だった。そのころはまだCADは無かったので製図板にむかいT定規に大振りの三角定規やコンパス、円定規などを用いて鉛筆で描いた。鉛筆の芯はクサビ状に削ったものを何本か用意して太さの違う線を引いた。製図器具セットには墨入れの道具(烏口とかいった)もあったがもはや使うことは無かった。
製図の講義は製図法など講義に出席して課題の図面を提出すれば概ね単位は取れる科目だった。それで講義の初めの頃に“製図用紙には決め事はないので新聞紙でも良いのだ”とかいうのでなるほどと納得した。とはいえ授業の作図演習にはケント紙を用いた。講義で投影法やら図法やらを学び作図演習などを終えると学期末には作図課題が与えられた。そのころ僕と彼女の遠距離恋愛は続いていて旅先で待ち合わせをしたり新幹線や東名高速で彼女のもとへ通ったりしていた。毎週末のアルバイトのお金はを貯めて彼女に会うための費用に充てた。

期末も近づいたある週末に僕は彼女と逢う約束をしていた。同時にその週明けには授業の製図課題提出も迫っていた。この課題の提出期限は週明けの月曜日なので週末をこれに充てれば造作ないことだが、そうすると彼女と逢うことができない。僕は自分の怠惰を後悔したがつのる慕情は彼女と逢うことの背を強く押した。そうして僕は、“ままよ、帰ってきてから徹夜して仕上げるだ”と自分に言い聞かせて彼女に逢うために東名高速に乗った。

遠く離れている分だけ逢瀬は甘く切ない。僕らは逢えば僕が彼女を家に送り届けるまで、翌朝は彼女がホテルの部屋まで僕を起こし来るか、どこかで落ち合うなどして一緒に居られれば幸せだった。そうして僕が帰る夕方までずっと一緒に過ごした。ただこの週末だけはいつもより早く彼女の許を離れねばならなかったので昼過ぎに僕は金華山の横を抜けて長良橋を渡り鷺山の麓まで彼女を送った。彼女の家は細い路地を入ったところになので彼女はいつものように広い通りで車を降りた。また逢えるのだと分かっていても帰る時には後ろ髪を引かれる思いだった。

一宮から東名高速に乗っても家に帰り着くまでは6時間ほどかかる。それから課題を仕上げることを考えると夕刻には家に着いていたかった。帰りの東名高速は幸せな逢瀬の余韻と課題の煩わしさの狭間で何とも言えない感覚だった。僕は休憩もそこそこにして睡魔を遠ざけるために窓を開けたり大声で歌ったりしながら東名高速を走った。そうして家に着いたのは午後7時過ぎだったと思う。夕食もそこそこにして課題に取り組み御座なりながら夜半過ぎには製図を終え、翌月曜日には課題を提出した。
午後の東名高速を117クーペの窓を開けて駆けるその時の感覚がフラッシュバックすることがある。色々なことを投げ出しても彼女に逢いにきたのだという高邁さと、残された課題をやりきらねば彼女を守れるはずがない、そんな未熟な想いとともに・・・。

これには後日談がある。僕は製図の講義には十分出席し幾つかの製図課題も提出したのだが期末には単位がもらえなかった。僕はその結果に納得できなかったので教授に理由を問うた。すると教授は期初に学生一人一人に貸与した資料のうち僕に貸した資料だけが返却されていない。期初に話した通り資料を返却しなければ単位は与えないというのだ。もちろん返却すれば単位を与えるという。僕は期末にこの手で教授に資料を手渡した記憶があったので間違いなく返却したのだと訴えたが結局単位はもらえなかった。学生に貸与された資料には通し番号がついていて僕が返却したのは他の誰かが貸与された資料だったらしいのだ。仕方なく僕は4年に進んでも製図の授業を再履修するはめになった。
そうして釈然としないまま製図の授業に出席して3カ月たったころ僕は同級生のF(僕らは同じクラブだった)にこのことを話した。するとFは教授に貸与された資料は返却せずにまだ持っているという。それでいてFは製図の単位を取得している。なんということだ、おそらく僕らが貸与された資料がいつの間にか取り違えられていたのだ。僕はFから資料を受け取り、それを教授に返却し改めて教授に単位を要求した。そうして3カ月遅れで単位を取得することができた。もちろんそれ以降は製図の授業には出なかった。

午後の東名高速を117クーペの窓を開けて駆けるその時の感覚が時折フラッシュバックする。


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