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Orca [雑記]

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月食 [雑記]

2021年11月19日 16時06分

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焼却炉の更新 [雑記]

9月27日 冬場になると庭先で枯葉や選定枝を燃やす。特に冬の朝の焚火は子供たちが登校前に手を火にあてて暖をとったりする。特別に暖かくなるわけではないが焚火はうれしいのだ。焚火だけではない簡易な竃を持ち出して薪をくべて羽釜に湯を沸かすのだって何だか幸せになる。
庭先には錆びたステンレスの焼却炉が置いてある。子供たちの曽祖父が何かのタンクを加工して設えたそれは錆びて胴の溶接部が朽ちて割れたりしたのを補修しながら凡そ40年ほど使い込んでいる。夏場は放っておいたそれも空気が乾くころになると出番が出てくる。その焼却炉を新調した。
新調といっても大きなステンレスの貯湯タンクを切って少しばかり手を加えて焼却炉にしたのだ。これに伴い古い焼却炉は切断して廃棄した。
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焚火についていうと例の野焼き禁止の法律の理解不足から焚火そのものをダメだと取り違えている人もいるが、法律では生活環境保全上支障がないことを前提に“たき火その他の日常生活を営む上で通常行われる廃棄物の焼却であって軽微なもの”は可とされている。
それはそのはずで例えば環境次第で竃に粗朶(そだ)や薪をくべて煮炊きするが生活上必須になるし、その行為と屋外で枯枝や薪を燃やすのは生活環境保全上で差はないし大きな支障があるとは言えない。これを昨今のCO2排出の観点で見れは薪を燃料とするのは環境にやさしいとなる。もちろん薪の熱量で現代生活が支えられるわけではないし薪を燃料とするには森林の継続的保全と活用が必要なのは言うまでもないが・・・。
それらはさておき焚火は傍にいるだけでほっとするし、薪が熾になるまで眺めていられる不思議な魅力がある。それで田舎住まいで少し庭が広いのをよいことにこの焼却炉を使って僕は心置きなく焚火をしている。
このことは竃や薪を使わない生活文化の中にいては直観的には理解しにくいかもしれないが昨今のキャンプブームの中で焚火の魅力が再認識されていことを想えば言わずもがなである。



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6月20日 [雑記]

6月20日 東扇島

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田植え [雑記]

5月29日 

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COVID-19 [雑記]

5月28日 かかりつけのクリニックで1回目のワクチンを接種した。

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写実画 [雑記]

10月2日 一枚の絵に絆されてホキ美術館を訪れてみた。

そこは写実画の美術館、森本草介の風景画が僕をひきつけたのだ。

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Best of Francisco Tarrega - Classical guitar Compilation [雑記]

9月9日 台風十号が過ぎて少し空気が乾いてきた。
幾つかの作業を終えて息抜きに何気なく開いたBest of Francisco Tarrega - Classical guitar Compilation
その芳醇な音色と精緻なタッチに思わず聞き入ってしまった。

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竣工 [雑記]

6月12日 新しい家が完成して今日引き渡しになった。さしずめ大家族のためのシェアハウスといったところか・・・。これでもう家を建てることはないと思うが、この機に家の記憶を残しておきたい。

僕は古い茅葺の家で産婆に取り上げられた。その小さな茅葺の家は江戸時代に建てられたのに違いないが建築年代は定かではない。大きな石を礎石として柱をのせてあった。入口の木戸(玄関と言えるほどのものではない)を入ると土間が背戸まで続いていた。そうして右手奥には味噌樽が置かれた納戸、右手手前には風呂場、向かいには竃、その奥には水場、左手には板の間に囲炉裏と茅葺の屋根裏からは自在鉤が下がって鉄瓶が掛けられていた。そうして囲炉裏の左向こうには小さな部屋が田ノ字に並んでいた。南面の西には濡れ縁があったがガラス戸の記憶は無く障子と雨戸の仕舞いだった。どこかに旧〇×家住宅など文化財として保存されている古い茅葺の農家と大差ない。母屋の東には茅葺の小さな物置、厠は母屋の東側に離れて建てられていた。
幼いころにはこの家の屋根の修復(茅葺屋根の葺き替え)も目の当たりにしている。痛んだ萱を取り除いてから荒縄で縛られた丸太や竹の下地を整えて、その上に新しい萱を敷き並べて竹で抑え、その竹を荒縄で桟木に縛り付けて締める。その萱の端が屋根の勾配に沿うようにコテ叩き込んで整える。そうしてそれを屋根の勾配に沿って幾重にも重ねてゆく。軒や破風は叩き込んだり刈り揃えたりして仕上げる。屋根裏は何年も囲炉裏や竈の煙で煤けているし萱も煤けている。加えて葺き替え用の萱は何年かかけて集めて用意した貴重品だからバラした屋根の萱も痛んでいない部分は再利用する。なので“屋根屋”の仕事は煤で真っ黒けになる。だから施主はその日の作業を終えた“屋根屋”を風呂に入れてから返すのだと父が言っていたが、風呂の記憶は定かでない。萱が崩れて少し凸凹していた屋根が吹き替えによって綺麗に整えられたのは気持ちが良かった。
ライフラインは、庭先に掘られた井戸、灯りは白熱電球、調理は竃と囲炉裏と一口のLPガスコンロ、情報は新聞と真空管のラジオ、テレビ放送は未だ無かった。物置には古い灯油ランプがぶら下げてあったが、もう使わなくなったそれを見て母は「昔は煤けたガラスの火屋を毎日綺麗にするのが大変だったよ」と話した。
小さな茅葺の家の生活は田舎の農家の素朴なもので米、麦、豆、野菜、鶏に加えて味噌などの保存食も含めて自給自足だった。今から見れば“貧しい”と表現されるかもしれないLOHASな生活は時間もお金も情報もゆっくり流れていた。買い物などもいわゆる“通い帳”で済ますことができた。その通い帳の決済は年末だったと思うが、ある年の暮れに父が「お金が無くなったので少し米を売るか・・・」と母に話したことがあった。その頃、米は食糧管理法に従って政府売り渡しになっていたが、自家消費分は藁で編んだ米俵に詰めて土間に積み上げてあった。それを現金かえるというので子供心に米俵は現金と同じなのだと感じた。また、当時は米や茶葉と並んで養蚕が大切な現金収入源だった。そのために父は母屋の東に平屋の物置を建ててそれを蚕室としたが養蚕の最盛期には古い茅葺の母家の一角も蚕室として使いもした。その蚕は”おこ様”とか”お蚕様”とか呼ぶほどに大切に育てていたが、僕が小学生になったころに父は会社勤めを始めたので養蚕は続けることが出来なくなった。時は高度経済成長期だった。
この古い茅葺の家で僕は節分、雛祭り、春彼岸、端午の節句、盂蘭盆、秋の彼岸、十五夜、十日夜、冬至、餅つき、正月、七草、鏡開き、繭玉などの年中行事を見てきた。それらは娯楽のように行われたが、時のうつろいの中に幸せへの祈りと感謝を込めた行事でもあった。また、小さな古い茅葺の家は祭りの頭屋や叔母の祝言、祖母の葬儀など冠婚葬祭の場でもあった。ただ小さな古い茅葺の家に暮らす大家族には私事の制約や配慮が欠かせなかったに違いない。
そうして僕が中学生になる頃に父は屋敷の東にあった小さな茅葺の物置を二階建ての物置に立て直した。一階には簡単な水回りと土間を設けて二階には姉と僕のための部屋を用意してくれた。この建物は物置だったが二階の居室のせいで物置扱いはされなかった記憶があるが定かではない。それはいずれ母屋を建て直すための父が考えた布石でもあった。僕が高校を卒業するころに家族はこの物置を仮住まいにして古い茅葺の母屋を瓦葺の母屋にを建て直した。

それからおよそ50年、父の建てた古い母屋を壊して新しく建て直し、今日引き渡しが行われた。
その道のりはおよそ50年前に父がしたのと同じような歩みになった。
先ず父が建てた古い蚕室を壊して新たに仮住まいができる物置(離れ)を建て、次に50年前の仮住まいにした古い物置を取り壊してガレージを建てた。古い物置を建て直すためにも離れが必要だった。そうしてようやく母屋の建て直しを終えたのだ。
新しい母屋は自分がやりたいようにしたつもりだが自分のことは後回しになってしまったがそれも良し・・・だな。


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記念日 [雑記]

2月24日 誕生日、そして40回目の結婚記念日

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妻を有頂天にできたらとふんわり思う。

TRES CASA にて・・・


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