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いすゞ ピアッツア [追憶]

1981年 いすゞから117クーペの後継機種のが発売されると、程なくして僕は白いピアッツァXLに乗り換えた。

ジョルジェット・ジウジアーロのショーモデル ”アッソ・ディ・フィオーリ”をいすゞが量産化するのは聞こえていたので、発売されるとすぐにカタログを取り寄せた。繰り返し見ていたのでかなり傷んでしまったその時のカタログが古い本棚に残っている。カタログではXEのそれは魅力的だったがデジタル表示のメータにはなじめそうもなかったので何かしら臆するものがあった。そうして悩んだ末に白いXLを選んだ。最初のモデルは未だフェンダーミラーだった。近未来的なフォルムに前衛的な操作系(クラスタースイッチ)のデザインが魅力的だった。物置に入れたXLの鼻先が写ったスライドが残っている。

そのころ僕は姉が乗らなくなったあの「アルト47万円」を通勤の足としていたが、僕の職場は妻の通勤経路にあったので時折は妻の運転するピアッツァの助手席で通勤をすることもあった。
僕が務めていたのは機械加工を生業とする会社だった。僕はオイルショックで疲弊したなかでの何かしら投げやりな気分で自宅からそう遠くない会社に就職していたが新しい環境は思いのほか新鮮だった。会社は大卒の新入社員を初めて採用したのだった。僕ら同期の6名は国内4拠点の工場で研修を受けたり、陸上自衛隊への体験入隊も経験した。僕はそこで品質管理の係りについたが会社は小さな組織だったので製造現場に就いたり生産技術的なことなどもするようになった。ところが就職して3年ほどたち会社の業様が分かってくると仕事の先に夢が持てなくなってきていた。そうして、ある品質不具合の対応方法をめぐって僕は上司と口論になり、上司の言葉に理不尽なものを感じた僕は、それを理由に転職を決意した。しかしそれは僕が退職を決意するための口実にしただけで実のところは品質不具合の言い知れない恐怖から逃れたかったのだともいえる。今振り返れば上司の言葉も理解できるのだが・・・。それはさておき当時、僕と同じように望むような職を得られなかった同級生や同僚のなかには新しい道を探して同じ頃に転職をした者は少なくなかった。
転職は数カ月かけて準備した。物造り現場で誰かの描いた図面で物を造るのが今までの職場であったが、やはり自分で描いた図面で物を造る仕事の方をするべきだと思い設計や開発の仕事を探して面接をうけた。そうして第一希望の採用内定を得てから退職届を提出した。
そのころ妻は二人目を身籠っていたので”こんな時期に転職をしなくても”とこぼしたが、同時に”転職によって生活レベルを落とさないこと”と僕に背中につっかえ棒を当てた。果たして振り返ってみてどうだったろうか背中のつっかえ棒が有効だったせいか僕は思いのほか上出来だったとと思うのだが・・・。
こうして翌年の年明けから僕は新しい職場に通うことになったので通勤に白いピアッツァの助手席に乗ることはなくなり白いピアッツァは妻の専用になった。

ジョルジェット・ジウジアーロのエレガントな117クーペで女性をエスコートするのは何か誇らしく嬉しかった。一方でピアッツァをドライブする小柄な妻はとてもキュートだった。

画像1.jpg

妻は白のピアッツァXLに次いで赤のピアッツァXEを、3台目は2.0Lターボのハンドリングバイロータス(グリーン)のピアッツァと乗り継いだ。ピアッツァは妻のお気に入りだったのだと思っているがその実は僕が妻に乗ってほしかったのだ。
僕はデザインの力を感じた。




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