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遺品 [塗師屋]

ようやく秋らしくなった朝に長年どうしたものかと思っていた遺品の本を整理した。
それは一人の男の回想をするようなものだが、遺品と記憶と幾つかの断片をつなげて思い出を再構成するようなものだった。
つまり彼の人生が幸せだったと言うために必要な構成を私の方法で再構成する作業でもあった。

長い間、僕はその人に愛されたという印象を持っていない。
それは、彼が愛情表現をするにはシャイで、男は自ら為すことが当たり前という風で自分の背中を見せる方法によったせいかもしれない。同時に私がそれほど大きく道をそれることが無かったので、ひどく咎められるようなこともなかった。だから、人生に大切なことを面と向かって教えられるような事もなかったが、いろいろな局面で物の捉え方、価値、あるいは決断などについて、それとなく聞かされた。それは「なるほど」と思うことが多かったが、一方では「そんなはことない」と思うこともあった。それは自分は「おやじ」とは違うという強い対抗心の表れだったもしれない。
また、彼には家督の名残ともいえる一族を守る本能があって、家長(あるいは族長)として一族のためにそこまでするのかという面も見せた。それは家族に対する愛情のようでもあった。私の妻などは「男」(群れを率いる男)としては私は「おやじ」に負けていると私を評した。(今は、どうか・・・)
それで彼の中で自分の順位はというと一族の末席に置かれていた感じがする。彼の本意は知る由もないが、総領は自分を犠牲にしてでも家族(あるいは一族)を守るものだ、という黙示であったかもしれない。今になっては一族の意識は希薄になっているが、こと家族に対してはこの意識が私の根底にあることを否めない。
晩年は不自由な身体なっても性に対する興味があったこともささやかなエピソードから知った。
女たちはそれを老いたのにしようがない爺だとも話したが私にはそう思えなかった。

村では頭の良い少年がその青春を戦争の真っ只中で過ごし、出征中に父親を亡くし、復員の後は貧しい家を今の不自由がないまでにした。母とは遅く結婚し、明日のために皆のために身を粉にしたと言える。

残された本の多くは青春を時代を過ごさざるを得なかった太平洋戦争に関するものと中国の歴史あるいは人物の物であった。中でもパラフィン紙でカバーされピンクの帯が付いた岩波文庫の「三国志」(全10冊?)は順次発刊されるのを待って手に入れて読んでいた姿の記憶がある。また、時折はその中の故事に例をとって話をしてくれたのを想い出した。

残すべき本を私なりの基準を設けて選択を試み、栞代わりに挟まれていた封筒や姉の名前が入った葉書などもそのままに物置の書架に並べた。
古本としての価値はさておき、私の孫、つまり彼のひ孫がそれを見た時に彼をどう見るだろうか・・・。


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